前回は、「性表現規制の根底には、性的要素を忌避する宗教的意識が存する」との言葉を末尾に置いて、次回でこれについて論証を行う旨を述べました。しかし、同じ調子で論述を続けるとなると、論議を縦横に展開するこの手の論文を読み慣れている方を除けば、たいていの読者は最初の数行で敬遠してしまう恐れがありますので、今回は宗教・倫理面での精緻な検証をなるべく避け、「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」をテキストとしてその論理構造や、明らかな倫理的誤謬(恐らく恣意的な運用であろうが)を指摘し、私の目から見た問題点を洗い出してみることにします。
今回「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」を読む際に、書面(もちろんpdf書類ですが)の一枚目から順を追っていたのでなく、あたかも紙の本を適当にめくって読み飛ばすかのように飛び飛びでトピックを拾っていたので、質問回答集の順どおりに論じてはいませんが、一応出典元の質問文を相当する論述の前に置いて補足します。 まず、「18 児童ポルノ的な漫画やアニメが児童に対する性犯罪を促進する」という証明はされていないのに、規制するのはおかしいのではないですか?」という質問の後に、東京都はこう答えています。 「子供が読むことで、子供自身の性的な考え方が歪むことを防止するため、子供への販売を制限するものです」 果たして、過激な児童ポルノ出版物を読んで、子供の考えが性的に特化した形でのみ歪んだものになるのでしょうか?まずその懸念が実体化した際に考えられる事態は、「子供がエロマンガに書いてあるような残酷な仕打ちを実行する可能性がある」ということです。 しかしもしそのマンガの内容が、大人が見てもおぞまし過ぎて不快感以上の感情を抱かざるを得ないものであれば、それは基本的に子供も同じように受け取ります。性的犯罪は人間の尊厳を著しく貶める行為ですから、それが自身の身に至った場合に自分がいかなる損失をこうむるか、言語による他人とのコミュニケーションが可能な段階を踏んでいれば、第一次性徴期を過ぎた子供ならそれぐらいの認識力は保持しているはずです。 このように子供の心を歪ませる、という考え方には、大人の恣意的な願望、「(特に自分の)子供に性的なことなど考えさせたくない、できれば考えないで欲しい」という我が身を省みぬ身勝手な願望が裏打ちされている場合が非常に多いのです。実はもっと倫理的に精査すると、このような大人側の考えそのものが一番悪影響を与かねないという議論に発展するのですが、今回は紙面の関係上割愛します。 で、次の矛盾点ですが、「15 現実の子供の性交経験率は高くなっているのに、子供の性行為を描いた漫画やアニメを子供から遠ざけても意味がないのではないですか?」という問いに対する東京都の回答がこれです。 規制の対象は、いわゆる「エロ漫画」のうち、子供への強姦や近親相姦などの悪質な性行為を、あたかも楽しいこと、普通のこととして描写しているようなものなど、子供に対する悪質な性行為のシーンを「売り」にしたものに限られます。 通常の子供が経験する性交と、このような悪質な性行為は、明らかに別物であり、性的判断能力が未熟である子供がこのような漫画などを読むことで、悪質な性行為への「誘い」に対する子供自身の抵抗感が薄れるおそれがあり、また、そのような性交を普通のこととして、真似て実践してしまうおそれもあります。 このような漫画などを子供に見せたくないというのは、親として、ごく自然の感情であり、このような漫画などを子供に見せないのは、未熟な子供を守る大人としての責務であると考えています 子供は大人の真似をすることで自ら学ぶ姿勢を形成する、つまり学習の契機を得ますが、大人が自覚無自覚いずれにせよ悪いことをすると、それを形の上だけ学んで無自覚に悪いことをするかというと、大方そんなことはないようです。確かに、その大人の悪行を悪と取らず、自分もそんなことしていいんだ、と思い込んで無自覚に犯罪に至る、というケースは皆無ではないのですが、問題なのはその子供がまったくの無批判に大人の悪行を真似するのでなく、たいていは悪行であることを重々自覚し、大人と同じ意識で大人のするごとく意識的に他人の権利や量的資産を収奪している、そういう例がほとんどだということです。しかも先に悪をなす大人が、犯罪意識そのものを自らの意識の根底に置く常習的なレアケースを別として、自覚的に悪行をなしたとしても、それを行った自分自身を無批判に受け入れることは極めて稀です。ここが法運用の微妙なところで、殊に日本ではたとえ社会倫理から外れた行為でも、法的にクリアー、あるいはペナルティーが軽微過ぎて、警察など治安側から見逃されてしまうレベルの犯罪であればいともあっさりハードルを越えてしまい、その後も罪の意識を持たないものです。しかしいったんある行為をなすことが違法だと意識してしまえば、大した刑罰の対象ともならないのにその行為をなす前や実行中、そして完遂した後も、異様に他人の目を恐れてしまうようになります。これは大人の側の意識であり心理なのですが、もし大人の悪行を真似てしまうような子供なら、たいがいこのような大人の息遣いすらも真似てしまう、いやもはやここに至れば真似の段階では済まない、「学習」をしてしまっているのです。「学習」とは「理」の作業であり、「情」の作業ではありません。もし「情」が子供の意識の先に立って大人の触法行為を真似るとすれば、それはむしろ、逆に大人に身も心も従属し疑うことを知らない「良い子」という思考回路からの所産である可能性が高い、と私は思います。 と、本来ならここから「性犯罪」と「情」の関係を展開したいところですが、かなり突っ込んだ議論になる上に論の流れで具体例を考慮しなければならなくなり、こういう場で公言するのもはばかられるたぐいの記述が頻出してきますので、ここでは割愛します。少しだけ触れるとすれば、性犯罪の形態のほとんどは、行きずり、成り行きといった”通り魔”的なものではなく、近親者や近い関係性にある者を対象とした例が圧倒的だと言われています。性犯罪に関するデータとしてそれは薄い、とお考えの方へ補足するとすれば、現代日本の極罪である殺人事件は、顔見知りの間柄以上の関係性を持つ人間間で生じる例が圧倒的に多い、と公式なデータではっきり示されています。殺人も性犯罪も他人の精神身体にただならぬ損失を与え、その加害者の意識が究極的に問われるたぐいの犯罪ですので、それなりのメンタルなバックボーンも必要になってきます。であれば、エロマンガを見たから興奮して成り行き的に犯行に及んだ、などという短絡的な理由が、その加害者の真意であり本質的な動機だと断定できるでしょうか。以前に一例、そういった証言をした加害者がニュースで取り上げられた記憶がありますが、その際は被害者との関係性や犯行の計画性を糊塗するための言い訳だと裁判官が喝破した、との言及があったようです。その記事の信憑性はともかくとして一般的なレベルで言えることは、人はやはり人を見て人より学ぶのであって、創作物における常軌を逸した表現を目にしたのみで、自覚なしで自ら再現に及ぶなどという事態は一般の世人ではまず不可能であって、それを実行に移し得た人間はむしろ、それが契機の一つであったにせよ、それとは別件でもともと当人の保持する、内的に属した深い動機に突き動かされたのではないか、少なくとも私の内面、そして接し得る限りの男女問わず他人(世に言われる悪人を含む)の意見を集約し考慮すれば、そう判断せざるを得ないのです。更に言えば、そういった創作物が実際に性犯罪の直接の契機となったとすれば、その犯罪者は普通の人間をはるかに超えた想像力と認識力を持つ超人か、人間の知能をはなから持たず本能のみによって動く生物の領域に属するか、そのどちらかであると私は思います。 で、ここまでが大人の悪行を子供が真似してしまうのではないか、という大人の懸念の押し付けに対する反駁ですが、その次に至るとかなり厄介な議論になるようです。 「通常の子供が経験する性交と、このような悪質な性行為は、明らかに別物であ」ると文中にはありますが、「通常の子供が経験する性交」と、「このような(アニメやマンガに出てくる《筆者補足》)悪質な性行為」は、果たして表現どおり別物なのでしょうか。 ここからは具体的な事例を挙げると、性犯罪を裁く法廷で飛び交う発言に近い記述になりますので、なるべく婉曲かつ簡単に述べていくことにします。 少なくとも私の読歴を省みれば、「これはたとえゾーニングが施してあるとはいえ、公的な出版物として世に出してよいものだろうか」という書籍(多くはマンガ)に接したことは少なくないどころではないし、現に私の持つ蔵書の中に、そのような表現を主眼として求めたものではないにしても、“いわゆる”悪質な性的表現の混入した表現物が紛れている可能性はほぼ100%です。その中には子供の頃に求めた雑誌に載っていた例や、長じて過剰表現を所望する目的でなしに買った大人向け出版物(ポルノ、マンガに限らずとも)の一企画がそういうものだった、などというのもあるでしょう。そしてそれらの表現物を、充分なリテラシーを持つ私自身が目にしても、著しい嫌悪感を禁じ得ない場合がほとんどです。表現界総体の問題としてこのような悪質な表現物をいかにするか、という議論はまた後に別枠で行いますが、その一端だけ申せば、私自身はこのような表現を極めて不快だとは思いつつも、社会的に全く不必要だとは思っていません。 話を一般的なレベルに戻すと、恐らく今回の条例案に賛成をしたほとんどの議員の方々は、私ですら不快に思うような表現物を目の当たりにはしていない、というより、もとよりこの手の性的表現を資料的に検証する暇を恣意的に惜しみ、並み居る表現者ならば充分許容範囲にあるレベルの表現すら大犯罪のごとく考えている節があるようで、それが「明らかに別物」などという文言に象徴されていると考えます。 もし、それが実際に当該の出版物を賛成者自身が検証しての意見であるとします。私が考えるに「通常の性交」とは見なせないたぐいのマンガ的性表現は、およそ実現不可能です。ではそのような表現とは具体的にどういうものであるか、という説明をここで行おうと試みましたが、この文章を読んでもらいたいと思っている一部の方々に対し、過分に不快な印象を抱かせ、かえって攻撃対象に仕立てられてしまう恐れがありますので、ここでは止めます。もちろんそれらの表現(というか不快と見なされた行為の描写)の名目的な分類は、質問回答集の文面にて数ヶ所挙げられています。 しかし一つ確実に言えることは、不快な表現としてそれらの分類に当てはまるとされた性行為は、おそらくたいがいの人間が実行に及んでいる、あるいは妄想の段階に留まってはいるが、知識として頭の中に必ず存在しており、もっと言えば意識上にのぼらないとしても、自分も出来ればそんなことをしてみたい、そんな欲求を誰もが抱いているはずです。つまり、普遍的とは言わないまでも、常軌を逸脱した性行為を欲する志向性は結構誰もが内包しており、そういった己の獣性を認めたくないばかり、それらの内的要請を否応なしに喚起させる性表現に対し、自分が受け入れられる限りの一面的な倫理意識でもって排除しようとする、それが表現規制を進める側の持つ内的動機ではないか、彼らの主張に存する矛盾を見出すたびに、私にはそう思えてなりません。 あと小さな話ですが、「このような漫画などを子供に見せたくないというのは、親として、ごく自然の感情であり、このような漫画などを子供に見せないのは、未熟な子供を守る大人としての責務であると考えています」という主張は一見、反論の透き間もない正論過ぎる正論を並べているように見えます。しかし、劣悪な内容の表現物を子供に見せたくない、と子を持つ親は必ず考えてしまう、と思っての記述であるとしたら、百歩譲ってこの種の主張を前面に出すのもよしとせざるを得ませんが、「親として、ごく自然の感情であり」とか「未熟な子供を守る大人としての責務であると考えています」といった記述からうかがえるのは、親という役割のある種の機能を一般的に説明しているように見えて、実際は「こうあるべき」と主張して読む側に押し付けている、もっと言えばこういう形で強迫観念を煽ることにより一種の洗脳を行おうとしている、そう見えてなりません。となればそういった洗脳によって、子供の考え方までも自分たちの作った枠内に押し込めようとする根拠が彼らの内に必ず存在しているはずですが、なぜかその点に関する言及や説明は同文書中のどこにも見当たらないのです。もしそれが自らの狭隘な認識に基づくイメージに帰しているのならば、その反駁は極めて容易なのですが、彼らは他者が反駁するに難い、自分たちを出所とするものとは別の規範を根拠にしているように、私には思われます。 その一つとして、彼らの脳裏に「正しいSEX」というイデアが存在していることは、先ほどの論述で示したように想像に難くないです。しかし、いかなる形のSEXが「正しい」と言えるでしょうか。一方的に他人を傷つける性的暴行は別として、基本的にSEXの正しい在り方など存在しません。 しかし、「正しいSEX」なるものを絶対の規範として提示している、思想体系はこの世に存在します。 先にも述べた、「宗教」です。 やはり前回と同じく、私が表現規制、ひいては思想統制の源泉を探ろうとすると、必ず宗教に行き着いてしまうようです。というよりもともと私が、宗教の恣意的援用で正当な個人の言動、もっと言えば頭の中をまるごと制限してしまいたがる傾向が世人にある、という自論を抱いているので、そういう帰着点に落ち着いてしまうのかもしれません。もちろんこのまま論を締めてしまえば、私自身がただ一方的に宗教に責を負わせたいという形になってフェアな議論とは申すことが出来なくなりますので、次回、2011年一発目の「宮ゲ!」は、その宗教そのものと表現規制の関わりについて、なるべく精緻に論述したいと思います。 本来の更新期日である金曜深夜はもちろん、明けて2011年の元旦となり、この日に本議題で更新しても面白くはありますが、元旦付近は恐らく私の抱える別枠の仕事で立て込んでいるはずですので、元日の更新は年頭の挨拶にとどめ、一応来来週、8日の未明にいま懸案の議題でもって更新する予定です。請うご期待。 #
by miyazawamagazine
| 2010-12-25 02:51
| アニメ・マンガ規制
今まで私、宮澤英夫は哲学生および仏教者という立場からフェアな立脚点を保つべく、政治的なトピックに対する発言を控えておりました。もちろん細かな私見を差し支えない、目立たない程度に漏らしたりはしていましたが、今回の法案採択はある意味、表現に携わりそれを享受する一般国民に対し多大な不利益を与えかねない政治的動向だと私は判断しましたので、禁を犯して、というほど大袈裟なものではないのですが、これまでやってこなかった類の論述を行う所存です。
もちろん私も表現者の端くれですから、一方的な表現規制法案の採択には感情的な反発を覚えることしきりですが、今回の記事ではあくまで哲学・倫理・宗教を人並み以上に学んだ立場から、倫理的な側面で改正案に対する論理的矛盾を指摘し、それに織り込む形で日本社会の判断基準となっている宗教意識をあらわにし、改正案の根本的誤謬を論ずるつもりです。 一つお断りを入れさせていただくと、この件に言及しようと決意したのが昨日の報道に触れた後でしたので、資料の精査が整っておらずただちに論を網羅することは出来ませんでしたが、さし当たって只今目にし得る限りの明らかな公的見解や発言のみを元手に論述を行うこととし、今回押さえられなかった問題点はまたのちのちこのブログ内で追記・補填することにします。 まず結論、というか今回採択された法案が不当であるとして対案を示すならば、「現行法を動かさず厳密に運用してレイティング、ゾーニングを徹底させればそれで済むこと」であります。 「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」を一読してみると、その大半はいかなる表現が不健全で、いかなる表現は適応外、という線引きの基準に言及した記述が多く見られますが、「未成年に見せない」という動機そのものをとりあえず差し置いて精査すると、先に述べたように現行法を徹底運用することでその責務は充分に果たされるのではないか、と私は判断しました。 この質問回答書の論旨は三つ、先に挙げた「線引き」、それに伴う法律の運用形態、そして現行の表現者に対する言い訳とガス抜き、そういった条例適用の方法論提示に終始しています。そしてこのことは後述しますが、なぜ規制をしなければならないか、という一番本質的な議論、倫理的正当性の証明が極めて曖昧なのです。 そこでまず、表現規制における一般的な問題をさし当たって列記します。 元来、社会的正当性、必要性の明確な表現規制は、ある種の思想統制と極めてつながりやすい構造を内包しています。まず規制の不当な援用と、それによってもたらされる悪影響についてです。 これはこの種の表現規制に対しよく言われることですが、所詮は微罪である表現規制に触れたという理由である被疑者が検挙に至ったとして、実はその被疑者に対する別の容疑を固めるために家宅捜索の口実として用いられる、いわゆる別件逮捕に利用されてしまう、という懸念があります。別件逮捕は元々その被疑者が社会的に疑わしいと思われていて、なおかつ検挙の理由が微罪であれば誰もが法の恣意的運用と見て問題視はしません。しかし殊にその別件が表現規制であるとしたら、被疑者が本来の容疑以外でも悪を成している、つまり表現規制に触れるような人間だからもっと悪いことをしてしまうのだ、という拡大解釈を世人が執る恐れがあります。つまり、表現規制を犯す人間は二段構えで社会的に絶対悪にされてしまうのです。これは表現規制そのものの法的運用の面では問題ないのですが、誤解に基づく悪いイメージを利用してさらに罪悪視される結果となり、遠まわしに表現活動そのものを締め付ける一つの遠い根拠ともなりかねません。この懸念は直接に表現規制を強化するたぐいのものではありませんが、それを施行する側の意識が如実に見て取れると思います。 次に、表現規制などという欲望制限の倫理的問題を挙げます。 というより、本来世人より見て過剰で不快な表現は、あくまでその当人が倫理的な観点で以って肯定、否定すべきものであり、社会的に問題があるとしても頒布側の自主規制の徹底で留めておくべきなのです。なんとなれば、公的拘束力が可能になるよう法制化されてしまえば、それは単純に思想統制というより、宗教などで見られる教義、つまり「(理由を説明せずに)コレコレのあやまちを犯してはならない。さもなくばカミ(天上の方、転じて「お上」)より罰がもたらされるであろう」というものになってしまいます。 もともと法というのは宗教的な言葉で、自ら判断や熟慮をせず生活全般に旧来のアニミズム的な(奔放な、場当たり的な)宗教的判断をなす者に対して、人間らしい思惟を持って自ら生活を律するよう示した、前者とは別種の宗教的な規範を指す仏教用語(仏教の「法」はサンスクリット読みでは「ダルマ」)なのです(ユダヤ教の律法についてはこの場では置きます)。もちろん本式の仏教学からすればこの用法こそ拡大解釈に当たるのでしょうが、少なくともこの法(ダルマ)の運用においては、仏法に勝った者が仏法にうとい者に自らの法(ダルマ)を押し付け、劣ると思われる法を否定する、という構造になっています。そして大抵、正しいと当人が思った法を説く者にとって、旧い法は不必要でしかなく、聞くべき耳を持つことをほとんどしないのです。もちろんその説得者が、真に仏法の深遠までをも理解しているとしたら、相手の抱く旧い法に一定の理解を示しつつ、相手の言説に応えながら自らの法(ダルマ)の優位性をよどみなく説くことができるでしょうが、そんな弁舌と人間性を持ち合わせ得る人間はその総本山、仏陀ご自身のみと私は考えます。 しかし仏教の法(ダルマ)やユダヤ教の律法といった宗教的教義が、現在用いられている法(law)とまったくかけ離れている訳でもありません。これらの大きな宗教も元来は比較的狭い地域で信仰されていた原始宗教に端を発しており、それらは現実生活の厳しさを軽減する目的で、精神世界の恣意的構築によって安らぎや救いを集団の構成員に与える役割を負うばかりでなく、それらの形而上的教義の中に、原始状態では絶対的に不足し認知もなされていなかった、実生活に必要な諸知識を織り込んで説いている側面も多々あり、それらの教義の実務的運用形態が、現在の法律へと引き継がれているのです。そして現代のlaw(これもユダヤ教の律法の原語を語源としていますが)がまったく実務的にのみ構築されているかというとどうもそうでもなく、明らかな人的被害や物損、金銭的被害という現実の被害が伴わない類の規制、つまり表現規制や刑法百十条、軽犯罪法のごく一部など、実際に被害者の存在や被害実態がなくとも刑や訴追の課免を検討する類の条文が、それほど多くはありませんが存在します。それらは宗教的教義としての法(ダルマ、律法)の名残り、とまでは申しませんが同趣向の発想により、社会的に適切だとして設けられた節が強く見られます。もちろん被害実態がないからといってそれらの法律が不必要だとは、私は申しません。むしろローカルな生活圏に存する狭義の社会や、それらを包括してグローバルに連関する地球総体としての世界の、その変容・心物両面の拡大によって必要となる、非実害要素を問題とする法律は今後も増えていくと見られ、また私も場合によってはそうあるべきだとは思います。 しかしそれらの法律は突き詰めると、人の心の在り方を問う社会的規定、と言うことが出来ます。人の心の在り方を問題にするとなれば、それはもう倫理的考察の領域であり、その倫理を裏付けるのは、ほかならぬ宗教です。 社会そのものがその運用ルールとして倫理を規定する、と(邦外問わず)普通の人は考えているようですが、人の心の在り方を社会が決めることはありません。社会とは政治、経済の論理でまとまっているものであり、厳密には人の欲望が総合されての表出態であって、そうなれば人の欲望が他人の欲望を否定、せめて規定するとなれば、それはもうlawfulな事態ではありません。一個の人間が、ひいてはその同じ欲望(思想)を共有する集団が、他人の欲望の在り方を否定、規定することは近代国家(少なくとも民主主義国家)では否定されるべきことなのです。それが否定されない場合、そういった社会や国家はもはやフェアな視点を持ってはいません。一個の覇王や政権を寡占する実力者によって運営される、価値観の多様が認められない共同体、ということになってしまいます。この例示が極端だと思われる方に質問です。形態が民主主義でも、利害の一致を明示した正式な契約によらず、一個の人間の欲望が他者によって制限されることは許されるでしょうか。社会や国家がそれを認めるとすれば、その為政者も同様の思想を持ち、それを根拠に共同体運営を行っているということになります。もとより国民のアンフェアをフェアな為政者が見逃す、などという事態はありえません。同様に、その為政者も国民をアンフェアな方法論で捉え動かしている、という理屈になります。 この事例は非民主主義を執る共同体における話ですが、さてこれが民主主義を土台とする共同体で行われていたらどうでしょうか。他人の欲望を前提なしに規定する、ということは社会的にまず認められません。しかし、少なくとも日本の現行法においてそれが認められるとすれば、先に出した為政者と同じような影響力を持つ思想の源泉が必要になります。為政機関に関わりを持たず、また欲望そのものを根拠にする経済活動を専ら行うでもなく、社会的に是とされる思想の出処を持つ勢力、となれば、まず確実に挙げられるのが宗教です。宗教とはそのものずばり、人の心の在り方を規定しています。そしてそれが一般的に不合理と見られても、人の道(著者注・宗教的理念の言い換え)として正しい、と主張しその声が大きければ、意外と社会的にあっけなく認められるものです。細かい問題点を言えば人ならざる者のお告げの正当性とかお布施に税金がかからないとかいろいろ挙げられますが、その中でも一番顕著な例、そしてすべからく宗教の教義の根幹に存する概念が、「性的な要素に対する忌避」なのです。 この件も当初は一回で済ます予定でしたが、やはりヒートアップしてその途上で規定字数を超えてしまいました。来週はまた「破裏拳ポリマー・その2」を延期し、性表現の規制が多分に宗教的視点に立脚していること、そしてその問題点を洗い出し、そして枚数が許せば「東京都青少年健全育成条例」について具体的に触れ、その矛盾点を指摘するところまで行きたいと考えています。そしてこの件は来週の金曜深夜を待たず、執筆に宛てられる時間さえ設けられれば、論述がある程度まとまった時点で随時更新するかもしれません。 #
by miyazawamagazine
| 2010-12-18 05:34
| アニメ・マンガ規制
今週の「宮澤英夫マガジン」は、予定していた記事「破裏拳ポリマー・その2」の掲載を来週に持ち越し、「東京都青少年健全育成条例改正案」可決により私が抱いた危惧、問題点について、少しだけ詳しく述べてみたいと思います。私自身はいかなる形態にかかわらずポルノ・擬似ポルノ製作からは縁遠い者ですが、アニメ・マンガを嗜好する一日本人として、アニメ・マンガに近しい形態を執る表現活動を行う者の一人として、そしてなにより、表現活動を行うと同時に哲学を学んだ文学士、及びその連関で倫理・宗教を人並み以上に学び深く考察・実践する一学徒として、感情的になるのは否めませんがなるべくフェアな視点から、あまねく表現規制の危険性について意見の一端を著わす所存です。
いつもの連載を楽しみにされている読者諸兄には申し訳ないのですが、やはりアニメ・マンガに対する公的規制の正当化が決して看過し得ぬものであることは、容易にご理解いただけると思います。 宮澤英夫 #
by miyazawamagazine
| 2010-12-16 23:24
| その他
四十七、タツノコプロ・その8 「破裏拳ポリマー」その1
1970年代に入って、制作会社の新興勢力タツノコプロが自らの手で新しい活劇をアニメの形で作ろうとするも、その範となった「アニメンタリー決断」の影響が強かった余波でアニメ自体の新しい方向性を示すにまで至った「科学忍者隊ガッチャマン」、「ガッチャマン」の方法論を受け継いだ上、ファンタジー性とSFを融合させて美しい悲劇を示した「新造人間キャシャーン」、この両者とも幼い私の心にはその本義がストレートには届かなかったが、「タイムボカン」シリーズを除けば初中期タツノコ作品のうち観ていた私が理屈抜きで一番心躍ったのは、今回取り上げる「破裏拳ポリマー」だ。 家賃の催促を迫る大家の娘南波テルに頭が上がらないほどうらぶれた三流探偵、車錠の事務所に、鎧武士という頼りない風来坊の青年が、助手として雇われるべく転がり込む。しかしちゃんとした仕事はなく、所長の無理な命令で目の前にそびえたつ国際秘密警察庁に忍び込み、上がりをかすめる片棒を担がされる。しかしそれは武士の表の顔、大事件の情報が入ると武士は単身ヘルメットに仕込まれた強化スーツをまとい、「破裏拳ポリマー」として急行し悪党どもに体技で立ち向かう。 と、設定を軽く示しただけで明朗な勧善懲悪活劇を期待させ、実際に本編に入れば転身アイテム・ポリメットの出自を巡るエピソードを除くと、前二作でうかがえた暗い影はきわめて薄く、ひたすら明るめで転身や討伐シーンも格好良い、コメディ&ディテクティブ・アクションとして気楽に観ることが出来た。武士の父は国際秘密警察の長官であり、将来を嘱望されて父からスパルタ教育を受けたが、それが心の傷となって離反する一因となった。しかし彼は鍛えられた体と頭をさらに磨いて、いずれは父を超える捜査官になることを目標としているのだ。 タツノコ作品では不思議なことに、父親とその子供が決定的な意見の相違などの確執により本心から全く反目している、という設定が用いられるのは、少なくとも初中期ではほとんどない。これらの作中で描かれる父親は、明らかに子供の目標となるべき立派な壁であり、対立の軸となるハードルも本質的な断絶を招くことはなく、子供も心底から父親を軽蔑することはない。明確な師匠という立場にはないにしても、父親の優位性が明らかに子供のモチベーションとなっているのだ。まさにジョン・フォードや黒澤映画のごとく、質実剛健で揺るがない父親(師匠)に反発しつつも、その度量と技量を認めざるを得ず、やがてまっとうに父親を範と成す子供の成長を描いている、そのように断言してよいだろう。もちろん現実と照らせば絵空事だが、殊に「ポリマー」のラストにおいてはエディプス・コンプレックスめいた確執が発展的に完全解消されており、普通なら観ていて胸の空く思いをしたはずだ。 しかし武士の父虎五郎は、当然だが徹頭徹尾武士たちの敵に回ることなく、むしろ互いを助けることで正の関係性を暗に築いており、この手の物語において普通は問題にするべきとされる深い断絶にまでは至っていない。よって父子の確執が物語の主軸とはなりえなかったようで、コメディ要素も相まって幼い私の興味は武士とその父の関係には向かなかった、というか向けようがなかった。実際、初見時に虎五郎が武士の父親であると認識した記憶が、私の内では皆無なのだ。 いきなり「ポリマー」においては裏側の入り口から入ってしまったが、表の入り口は何と言ってもポリマーの闘う勇姿だろう。武士がポリマーに転身し、ポリメットの補助のもと体技と知略を駆使して敵集団と戦う有り様は、範とした香港クンフー映画に迫る勢いで以って描かれていた。そしてポリマーたる武士に暗い出自が殊更にあるようでもなく、またキャシャーンのように自らの身を捨てる覚悟で戦いに挑むでもなく、彼のモチベーションは立場上0の位置にいる自分を他人(あえて言えば特に父親)に認めさせることであり、戦う姿もポリマースーツに依っているというよりただの戦闘服をまとっている感覚で、見た目には武士自身の身に付けた戦闘技術で真っ向から敵に肉弾戦を仕掛けていく。加えて、前作格の「新造人間キャシャーン」では愛犬の化身フレンダーが変形してキャシャーンの乗機となるが、「ポリマー」では強化スーツそのものが戦闘用ビーグルに変形するのだ。複雑なストーリーや謎の仕掛けられた設定など理解できるはずのない子供にとって、これほど魅力満載の活劇はないだろう。 しかし往時の私は、ポリマーのアクションが強調された部分に関して、さほど興味を覚えていなかったようだ。先も述べたように、ポリマースーツの補助を得て基本は武士自身が己の技と力で戦っている、という事態を私は割りとマイナスの方向に捉えていたようで、肉弾そのものを武器として敵に挑む姿に心躍る瞬間もたまにはあったが、ポリマースーツの形状を変えスーパーメカを駆使する場面となると、そのリアリティの欠如も相まって興ざめを覚えたものだ。フレンダーの変形態がその設定からキャシャーンとの浅くないつながりを意識させ、デザインもスマートで少なからぬ魅力を醸していたのに対し、人間形態のポリマーが戦闘ビーグルに変形する流れなど変身願望の強調にも至らぬ、ただ設定の上塗りにしか思われなかった。デザインもフレンダーと比べていま一つで、いかにもリテラシーの不足する子供が喜びそうな要素を詰め込んだ感があり、幼心にも正直観ていて鼻白んだものだ。 このポリマースーツの由来を察するに、「科学忍者隊ガッチャマン」におけるバードスーツは単なる保護目的の戦闘服で、卓越した戦闘能力はあくまで着ている本人に属し、キャシャーンはスーツ由来でなく生身の体を捨てて得た機械の体自身が戦闘能力を高めていた。では普通の人間がパワーを得るには、という課題のもと実際のポリマー(高分子化合物)という新素材の性質や語感を援用し、ポリマーでできたスーツ自体が力を持つという設定が形作られたのであろうが、少なくとも私はビジュアル、機能両面でポリマースーツのアドバンテージを意識することはなかった(シャープペンの替え芯「ハイポリマー」が「ぺんてる」から1960年に発売されていて、「ポリマー」の名称、設定の原点はおそらくこれだろうし、私も「ポリマー」と聞くと反射的にシャーペンの細い替え芯を連想してしまう)。鎧武士自身もともと格闘技の優れた使い手という設定であることを考慮すると、当該の枠から外れてしまう仮定だが、いっそのこと滝和也状態してしまえば今の私なら燃えて観ること間違いなしだろうし、当時でも私の興味を惹く対象となったかもしれない。 オープニングでポリマーの勇姿を連想させる勇壮な主題歌が流れると、正直今でも血の湧く感覚を禁じ得ないのだが、そののち本編で展開されるポリマーの格闘に一喜一憂する単純さを、その当時の私ももはや持ち合わせていなかったのだ。 そして当然、ポリマーや国際警察と敵対する悪の組織というものがいるわけなのだが、これがギャラクターやアンドロ軍団のような、定まった一つの大きな組織ではないのだ。この手のヒーローアニメにしては珍しく毎回全く異なる犯罪集団が登場し、また「仮面ライダーストロンガー」の最終回に出てきた大首領のように、これらの組織を陰で操る黒幕がいるわけでもない。しかも一組織あたり、ほぼ一回で消化。まさに悪の組織の大盤振る舞いだ。 なぜこのような構成になったのか詳しく言及した資料もなく、目にし得る限りの企画意図の断片から推測するより他に分析のしようがない。情けなくもwikiを当たると、鳥海尽三氏によれば「遠山の金さん」や「鞍馬天狗」を参考にしたとのことで、わかりやすい現行の時代劇を例にとるなら「水戸黄門」あたりの構造だ。これは恐らく、ギャグや軽妙なアクションを基調とした明るい娯楽作品を志向したことから、カタルシスを描く際には一回ですっぱり片付けた方がより効果的だ、という議論の方向になったためだろう。またギャラクターやアンドロ軍団のように一まとめの大きな組織を設けてしまうと、そこに必ず世界征服などの目的意識が裏打ちされることになってしまい、彼らと主人公たちとの間に「こだわり」とか「怨念」「因縁」といった関係が生じて話が複雑になり、見ている視聴者(子供)の側が肩の力を抜いて一回一回のカタルシスを味わうことが出来なくなる、そういう判断が働いたからだと思われる。 以前から述べているように、比較的幼い頃からストーリー重視でアニメを観る傾向にあった私にとって、そのような構造があまりに軽く思えたのか、少なくとも初見時に敵の存在を強く意識することはなかったようだ。だいぶ後年に至っての再見時、こんなふざけた色彩をまとった連中が敵として相対していたのか、と驚いたぐらいであるから、それだけ印象が薄かった、つまり関心がなかったのだ。そのサイケ調の敵がTV実写版「バットマン」のようにイカレた連中として描かれたとすれば彼らの存在にも興味が持てただろうが、彼らの執る作戦は案外真剣に計られ、大規模かつ大真面目に遂行されていたのだ。「バットマン」ではブルース・ウェインの方が大真面目だったからふざけた敵とのギャップが結構面白かったが、味方の側がだらしないのに敵が見た目と違い大真面目だったのは、どうも私にとり逆効果であったようだ。 こうして設定や展開を少し掘り下げてみたら、意外に幼い時分、そしていま現在でも私の興味を惹く要素が薄い作品、という風になってしまった。しかしそれでも、幼い頃の私はこの作品を毎回楽しみに観ていたし、今に至っても楽しい記憶が残っており、そして今でも再見の機を楽しみにしている。なぜだろう、というより今回はそこに至るまでに規定枚数を費やしてしまって、そのお楽しみの部分については論が及んでいない。 と書けば、同じく「ポリマー」が好きな方ならもうお解かりであろう。次回はそのあたりを詳しく述べることに。請うご期待。 第四十八回へ続く #
by miyazawamagazine
| 2010-12-11 00:38
| 破裏拳ポリマー
四十六、タツノコプロその7 「新造人間キャシャーン」その2
これまで私が「宮澤英夫のゲーム!特撮!アニメ!マンガ!」において、意識的に「萌え」について論ずることはほとんどなかった。このブログ全体に限らず、マンガやアニメを扱うブログ総体においてこれほど「萌え」を取り上げない例は、極めて稀な事態であろう。しかし別に人の目をはばかって意識的に避けていた、とか、内心の奇矯な宗教的信念が妨げていた、とかいった特殊な理由があるわけではない。単に今取り掛かっている段階、1970年前半部のアニメシーンにおいて、幼い私がそれほど「萌え」について特段の意識を持つはずもないと思い込み、取り立てて論ずる必要性を感じていなかったからだ。 そしてこの原稿に取り掛かる際、初めはまったく言及していないと思っていたが、調べてみると一回だけ「アンデルセン物語」を取り上げた時、幼心に倒錯した「萌え」を覚えた旨を記載していたことがわかった。その時の論旨は極めて特異なものだったので、今の世に流布する一般的な「萌え」にまで敷衍せず論を終えてしまったようだが、振り返ると現代の「萌え」に通ずる意識的な描写がこの頃あたりのアニメから暗に明に示されるようになり、そろそろ一般的な「萌え」について私なりに深く論ずる必要が出てきたので、今回からは「萌え」をも特筆すべき一つの主題と意識して精緻に扱うことにする。なお、私は「萌え」概念の興隆を単なるオタクの心無き戯れの深化として軽視せず、現代の一般的な恋愛感、直言すれば性愛観と断絶することなくむしろダイナミックに連動していると考えており、そのため当ブログにおいて心理学的な用い方を心がけるにせよ、かなり性的に露骨な表現が頻発することとなるので、その類の話が苦手な方にとっては不快な読み物となり得ることをご了承いただきたい。 なお今回は、厳密には「萌え」そのものの分析を行うまでには到らず、その前段階とも言うべき「戦う美少女」、もっと突き詰めれば「主体的な女性」について述べることを論の柱とする旨を、あらかじめ明確にしておきたい。 さて、今回取り上げるトピックは、「新造人間キャシャーン」の続きであるから当然、上月ルナについてである。「キャシャーン」の中でのルナの位置付けは、まずキャシャーンの姿となる前段階の青年、東鉄也のGF(恋人と設定上は明言されていない)であり、鉄也がキャシャーンと化したのちは、生身の人間が唯一アンドロ軍団とサシで渡り合う契機を与えるMF銃を開発者である父より託された者として、キャシャーンと共にアンドロ軍団と戦うゲリラ兵、といったところだろうか。ゲリラ兵と言っても、劇中に出てくるいくつかの対アンドロ軍団武装組織員のように正式な訓練は受けておらず、また彼女が当初より戦闘に特化した特殊な能力を持っている訳でもない。ただ、アンドロ軍団に殺された父親から彼の作ったMF銃を受け取ったこと(厳密には取り返した)、そしてキャシャーンの前身、鉄也の恋人であったことをモチベーションに、あくまでキャシャーンとMF銃に依ってしか行動することのない、凡百のヒロインの単なる一例として捉えられる向きがある。 以前「ガッチャマン」を取り上げた際に言及を失念していたが、物の本、まあ言ってしまえば斎藤環著の「戦闘美少女の精神分析」という書物によれば、自らの身を戦場に置き戦うヒロインの、ある観点での嚆矢は科学忍者隊の紅一点、白鳥のジュンだという記載がある。果たしてそうだろうか、と思い、さし当りアニメ年表で確かめたところ、白鳥のジュン以前にアニメ(及びそれに近接するマンガ)のカテゴリーで見出される戦闘に特化した女性は二例、手塚先生原作「リボンの騎士」のサファイアと、石森章太郎著「サイボーグ009」のフランソワーズのみである(特撮を入れるとさらに話が複雑になるので割愛)。サファイアは確かにリボンの騎士として黒い戦闘服めいた礼服のバリエーションをまとい、夜な夜なジュラルミン大公たちの悪事に介入するが、彼女は戦闘美少女というより精神的なアンドロギュノス(両性具有、つまり男女性が合一しているため強い力を有する)の文脈で捉えた方が正しいようだし、フランソワーズもブラックゴーストの実力部隊と鉢合わせれば銃で応戦することもあるが、基本は特出した視覚と聴覚を能力として活用し、近接戦闘よりも情報収集、諜報を主とする戦闘支援に回ることが多かった。だから確かに斎藤先生のご指摘どおり、白鳥のジュンが戦闘美少女の初端と見るのは順当だろう。しかし私はその文脈を了解しても、なぜか白鳥のジュンに対して魅力を覚えることはなかった。それは以前に言及していても明言はしなかったのだが、彼女がギャラクターと戦うモチベーションと、彼女が科学忍者隊の一員である必然性が、私が作中において今ひとつ見出せなかったからだと思う。下って現在手に入る資料や解説に当たっても、私が納得できるような白鳥のジュンの戦う内的動機を明らかにしている記述はほぼ皆無だ。 翻って、上月ルナはどうか。彼女はMF銃を持っているとはいえ、白鳥のジュンほど身体を使って体技を繰り出すことはまずない。服装もしかり、白鳥のジュンは時代の要請かミニスカートを履きながらも大胆なハイキックをオープニングで披露していたりする(アンダースーツは着けているが)一方、ルナも体の線もあらわなピンクのワンピース姿だが(「キャシャーン」企画書に添えられたルナのラフスケッチを見ると、たおやかで線も細く、男が守るに値する高貴さを含んだ少女のように描かれていた。括弧内で余談に至り恐縮だが、それらのラフは極めて天野喜孝先生の画風に近似しており、いかに天野先生が吉田竜夫氏から得たものが大きいかが一目瞭然なのだ)、人間が太刀打ちできないロボット兵と格闘に及ぶことはまずなく、服が乱れて萌えポイントが加算される余地はない。ついでに言えば、白鳥のジュンは美少女として何とか認められ得る容姿の持ち主だと私の目には映っているが、上月ルナは歳が若い設定が影響しているのかどうか、有体に言って形象的に美少女のイデアから少し離れた場所にいるように思われてならない。そしていつもキャシャーンに付き添い、離れていればキャシャーン(東鉄也)の姿を追い求めるばかりという、幼い私は初見時においてキャシャーンの添え物的な、言ってしまえば地味な印象しか抱けなかったようだ。 そしていくばくか視聴を重ねるうち、だんだんルナの存在が私にはウザくなってきた。 それに似た感情とか、言葉の綾といったレベルで、私はこのように語っている訳ではない。 今にすれば、と前置きする必要もなく、しばしば画面を横切るルナの姿が、私にはウザかったのだ。 特に毎回本編の終了後に流れるEDで、ルナが一人疾走する止め絵が映るたび、何でこいつごときがこんな大写しになるんだよ、そうはっきり思っていたのだ。 そしてなぜ当時の私が、彼女に対しそこまで悪感情を抱いていたのか、本当につい先日までわかりかねていた。 しかし先日、この記事を書くための資料としてタツノコ作品史をまとめたMOOK本を確かめているうち、私がルナに対し肯定的な印象を持てなかった理由が判明したような、そんな気がした。 一言で言ってしまえば、これは一つの結論にもつながるのだが、上月ルナは個人で主体的に戦っていたからなのだ。 ルナがアンドロ軍団と戦う理由は、往時のアニメのようにどこかの特殊な国家(リアルな国家体制なのか、魔法の国のような架空の特質性を持つかにかかわらず)の姫君であるとか、主人公のチームメイトで運命を共にしていたり、主人公の想い人で足手まといになりつつも微力ながら主人公を助ける意向を持っている、というものでもない。まず彼女の父親が電子工学の権威で、鉄也の父親とは別枠でロボット兵に対抗し得る兵器、MF銃を開発しており、それが仇となって父親は殺され、彼女の手にMF銃が渡ってしまう。ここで彼女は父の仇アンドロ軍団に憎しみを抱く契機を持ち、かつ父の形見であるMF銃を所持するという重責を負ってしまったのだ。 このような構造は、もしこの作品という場において変身ヒーローものの枠組みが前提でないとしたら、主人公が戦う一個の理由、そして主人公が主人公たり得る理由として、充分な説得力を保持している。もしキャシャーンの存在がなくてルナが男の子であるとするならば、往時のアニメの文脈ではまず彼が主人公と措定されても遜色はなく、むしろ主人公の王道を確実に踏んでいると見ていいだろう。 しかしなぜ、往時の通例ならば主人公の添え物という役割しか与えられないはずのヒロインに、これほどヒーローに準じない形で主体的な戦う動機を持たせたのか?ということについて、今のところ確かめる術はない。先のMOOK本においても、wikiやその他ネットの情報においても、総監督である笹川ひろし氏の著作を当たっても、ルナについての詳しい記載は皆無に近い。その笹川監督の著作「ぶたもおだてりゃ木にのぼる」に到っては、製作統括者であるのにルナの設定に関する話は一切なく、ルナのCVが塚田恵美子さんである、という一介のデータとしてしか触れられていないのだ。 しかし殊、子供向け作品の名作にはこういうこと、つまり制作側が特異な設定や展開を自らの思想に基づいて最初から恣意的に作り上げることなどほとんどない、という事態が往々にしてあり得るものだ。件の「ウルトラマンタロウ」のプロデューサーで、他のウルトラシリーズや円谷特撮番組の制作や企画をも担当された熊谷健氏としばしば酒の席を共にした際、いろいろとオタク的な質問を吹っかける私に対し、私と同じような態度で取材を試みた同人の新聞風会誌を手にしながら、熊谷氏が「ボクたちは別にこんなややこしいこと、作ってる最中は考えたことないんだけどね」などという趣旨の弁明を繰り返されたのが、未だに深く強く印象に残っている。 ところがそのようなメタファーや寓意は、企画立案や作劇作業中において制作者や脚本家の頭の中に意識上か無意識下いずれかに必ず存在していて、製作現場でも個々の当事者に明確な認識はなくとも、現場やその時代の空気という形で確実に伝播し、彼らの脳裏に留まりその結果それぞれの仕事結果に反映されるものである。だから私は熊谷氏の言葉を文字通り捉えてそれにのみ準拠するような原理主義的判断を極力避けており、多様な視点からの読み込みと思考の派生逸脱を恐れない分析を行うようにしている。 そのようにして思い至った、ルナのヒロインとしては過剰ともいえるモチベーションの源泉は、現在のフェミニズム(男女参画社会という政治方針の起源)の更に原形、’70年代に世界レベルで勃興した男女同権運動、ウーマンリブに発すると私は推測する。 ここで恐らくほとんどの読者は、何だそんなことは誰でも考えつくじゃないか、と思われるだろうが、私の分析では上月ルナに備わる主体性は、ウーマンリブの考える主体性と必ずしも一致しない、いやむしろウーマンリブ活動家の抱く女性の主体性、つまり、ある種社会が暗に許容するという形で女性に課した甘えの構造に裏打ちされた、過渡的な誤解に基づく行動理念を、はるかに越えた次元で上月ルナは戦っている、と説明した方が私には納得がいく。 つまり先ほどは、ルナの持つ戦う内的動機がそれ自体一個の主人公として存立しうるほどの質を内包している、という旨の記述をしたが、更にアドバンスを加えた言葉を用いれば、ルナはたとえキャシャーン(東鉄也)と行動を共にしなくとも、アンドロ軍団と戦うだけのモチベーションを有しているのだ。 これは当該話を直に検証した訳ではないが、先のMOOK本中の本編第四話の解説に、苦闘の末MF銃を手にするに至ったルナが、共に戦うべく誘うキャシャーンを一旦は拒絶し、単身で戦いに赴く意志を見せる、という記載がある。これがこのまま進んでしまったら当時のアニメ文脈を逸脱してしまうので、当然ルナはキャシャーンと共に進む方向に落ち着くのだが、たとえドラマの高揚を図った演出だとしても、彼女のその拒否の姿勢に私はルナの主体性の強さを見出すのである。 このようなファクターは、戦闘アニメ美少女の嚆矢である白鳥のジュンからも見出せないばかりか、明らかにその当時までのアニメ、ひいては創作物総体における女性観を軽く超越している。 ではなぜその時点でこのような女性キャラクターが成立し得たのか、という点については、前述したように公的私的にもまだ判然とはしていない。まだウーマン・リブ運動が上月ルナの特異性の産出に直接の影響を与えた、とは明言できないのだ。 そしてキャシャーンに対する上月ルナの位置付けを、現在に流布するマンガ・アニメのキャラクターを用いて例えるとするなら、「鋼の錬金術師」におけるロイ・マスタングとリザ・ホークアイの関係に、あえて言えば一番近い、と私は考える(銃の使い手であることなどは偶然ながらまさに一致)。ホークアイも自らの裡に存する業に基づき彼と行動を共にしているが、動機そのものは必ずしも内的なものではなく、セントラル掌握というマスタングの意向に沿って形作られている向きが強い。もちろん自らの意志で判断し行動を執り、強靭な魂を有しているのは二人とも同じだが、ホークアイはどうしてもその行動理念をマスタングに負っているという点で、ルナに劣るとは言わないが、従来の女の枠組みからは逸脱していないように見えるのだ。 そしてここに至ると、主体的に戦うルナのキャラクターに幼い私が違和感を覚えた、という事態にも簡単に説明が付く。当時の私はまだ性的に未分化な幼子でしかなく、その上女性蔑視(もしくは女性自身の意志意向を無視する傾向)など当然な田舎の農家(の体裁を保持した家)の、それも長男坊という位置に担ぎ上げられていたため、自らの信念に基づいて行動するルナとかいった女は、女性として遵守すべき態度を執っていると認められなかった、つまり出しゃ張りな最低女に映ったのだ。 しかし今となっては、これまで私がブログなどで著わしてきた論述からも明らかなように、男に付き従い男の価値観に拠って男に依存することを当たり前として全く疑わない、つまり主体性のない女性など、私は御免被る。 そして私はいま、長門よりも天使ちゃんよりもきりりんよりもニンフよりも美琴よりも澪よりもイカよりも、誰よりも上月ルナに萌えているのだ(あ、でも沙織・バジーナも捨て難いか……)。 ちなみに、ちょうどこの1973年10月、サイボーグやロボットが主要な位置を占め、かつ女性が主体的な行動理念を持つことが物語の主題となっているアニメ、「ミラクル少女リミットちゃん」(‘73年10月1日)と「キューティーハニー」(‘73年10月13日) が「キャシャーン」(’73年10月2日)とほぼ同時に放映を開始している。製作始動の準備期間を考慮しても、これらの番組が互いに何らかの影響を与える余地はなく、同時多発的に発信されたものだと推測される。「キューティーハニー」は「ミラクル少女リミットちゃん」の枠で没になったのを拾われたという経緯があるが、「ハニー」原作(‘73年10月1日)の企図自体は永井先生が元々頭の隅にあったものと見てよいだろう。それに当初は少女マンガの枠内で’73年1月に始動した「エースをねらえ!」が次第に内的な深化を遂げ、岡ひろみの努力とそれにより築かれた実力の行使が軸となってきたのもちょうどこの時期だと推測され、しかも最初のアニメ版の放映開始(‘73年10月5日)も前三者とほぼ重なっている。 私はこの事態を見て、この頃の創作現場から発せられたある種の価値転換の初端として位置付け、仮に「1973年10月の変」と名付けたい。もちろんこれらの動向は偶発的なものではなく、それまでに脈々と蓄積された、価値固着に抗する人々の意志が時満ちて然るべく反映されたものだ、と私は考えている。そして将来的な話だか、この場で作品解題を行うばかりでなく、いずれ「萌え」を精緻に考察する基盤を築くため、’70年後半にエポックメーカー「うる星やつら」が出現するまでのヒロインの変遷を、極力クロニクルではなく彼女らの主体性と彼女らに属する概念を縦糸横糸にする形で、そう遠くないうちに論考する予定である。 今回は枚数を喰う事態になることは予想していたが、いざ書き上げてみると当ブログの最多枚数となってしまった。それだけ私が往時から徐々に自らの業を深く感じるようになった、というか今回はただの上月ルナ萌え表明なだけかもしれない。 さて次は、「新造人間キャシャーン」について他に何か、ただ今論ずべき点が見出されればその続きを著わし、その後に私にとってのお楽しみ、「破裏拳ポリマー」について語ろうと考えている。もし「キャシャーン」関連で枚数を裂く必要が薄ければ、久しぶりにオタクフルスペック全開と行きたいところだ。請うご期待。 第四十七回へ続く #
by miyazawamagazine
| 2010-12-04 01:55
| 新造人間キャシャーン
|
by miyazawamagazine
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