四十六、タツノコプロその7 「新造人間キャシャーン」その2
これまで私が「宮澤英夫のゲーム!特撮!アニメ!マンガ!」において、意識的に「萌え」について論ずることはほとんどなかった。このブログ全体に限らず、マンガやアニメを扱うブログ総体においてこれほど「萌え」を取り上げない例は、極めて稀な事態であろう。しかし別に人の目をはばかって意識的に避けていた、とか、内心の奇矯な宗教的信念が妨げていた、とかいった特殊な理由があるわけではない。単に今取り掛かっている段階、1970年前半部のアニメシーンにおいて、幼い私がそれほど「萌え」について特段の意識を持つはずもないと思い込み、取り立てて論ずる必要性を感じていなかったからだ。 そしてこの原稿に取り掛かる際、初めはまったく言及していないと思っていたが、調べてみると一回だけ「アンデルセン物語」を取り上げた時、幼心に倒錯した「萌え」を覚えた旨を記載していたことがわかった。その時の論旨は極めて特異なものだったので、今の世に流布する一般的な「萌え」にまで敷衍せず論を終えてしまったようだが、振り返ると現代の「萌え」に通ずる意識的な描写がこの頃あたりのアニメから暗に明に示されるようになり、そろそろ一般的な「萌え」について私なりに深く論ずる必要が出てきたので、今回からは「萌え」をも特筆すべき一つの主題と意識して精緻に扱うことにする。なお、私は「萌え」概念の興隆を単なるオタクの心無き戯れの深化として軽視せず、現代の一般的な恋愛感、直言すれば性愛観と断絶することなくむしろダイナミックに連動していると考えており、そのため当ブログにおいて心理学的な用い方を心がけるにせよ、かなり性的に露骨な表現が頻発することとなるので、その類の話が苦手な方にとっては不快な読み物となり得ることをご了承いただきたい。 なお今回は、厳密には「萌え」そのものの分析を行うまでには到らず、その前段階とも言うべき「戦う美少女」、もっと突き詰めれば「主体的な女性」について述べることを論の柱とする旨を、あらかじめ明確にしておきたい。 さて、今回取り上げるトピックは、「新造人間キャシャーン」の続きであるから当然、上月ルナについてである。「キャシャーン」の中でのルナの位置付けは、まずキャシャーンの姿となる前段階の青年、東鉄也のGF(恋人と設定上は明言されていない)であり、鉄也がキャシャーンと化したのちは、生身の人間が唯一アンドロ軍団とサシで渡り合う契機を与えるMF銃を開発者である父より託された者として、キャシャーンと共にアンドロ軍団と戦うゲリラ兵、といったところだろうか。ゲリラ兵と言っても、劇中に出てくるいくつかの対アンドロ軍団武装組織員のように正式な訓練は受けておらず、また彼女が当初より戦闘に特化した特殊な能力を持っている訳でもない。ただ、アンドロ軍団に殺された父親から彼の作ったMF銃を受け取ったこと(厳密には取り返した)、そしてキャシャーンの前身、鉄也の恋人であったことをモチベーションに、あくまでキャシャーンとMF銃に依ってしか行動することのない、凡百のヒロインの単なる一例として捉えられる向きがある。 以前「ガッチャマン」を取り上げた際に言及を失念していたが、物の本、まあ言ってしまえば斎藤環著の「戦闘美少女の精神分析」という書物によれば、自らの身を戦場に置き戦うヒロインの、ある観点での嚆矢は科学忍者隊の紅一点、白鳥のジュンだという記載がある。果たしてそうだろうか、と思い、さし当りアニメ年表で確かめたところ、白鳥のジュン以前にアニメ(及びそれに近接するマンガ)のカテゴリーで見出される戦闘に特化した女性は二例、手塚先生原作「リボンの騎士」のサファイアと、石森章太郎著「サイボーグ009」のフランソワーズのみである(特撮を入れるとさらに話が複雑になるので割愛)。サファイアは確かにリボンの騎士として黒い戦闘服めいた礼服のバリエーションをまとい、夜な夜なジュラルミン大公たちの悪事に介入するが、彼女は戦闘美少女というより精神的なアンドロギュノス(両性具有、つまり男女性が合一しているため強い力を有する)の文脈で捉えた方が正しいようだし、フランソワーズもブラックゴーストの実力部隊と鉢合わせれば銃で応戦することもあるが、基本は特出した視覚と聴覚を能力として活用し、近接戦闘よりも情報収集、諜報を主とする戦闘支援に回ることが多かった。だから確かに斎藤先生のご指摘どおり、白鳥のジュンが戦闘美少女の初端と見るのは順当だろう。しかし私はその文脈を了解しても、なぜか白鳥のジュンに対して魅力を覚えることはなかった。それは以前に言及していても明言はしなかったのだが、彼女がギャラクターと戦うモチベーションと、彼女が科学忍者隊の一員である必然性が、私が作中において今ひとつ見出せなかったからだと思う。下って現在手に入る資料や解説に当たっても、私が納得できるような白鳥のジュンの戦う内的動機を明らかにしている記述はほぼ皆無だ。 翻って、上月ルナはどうか。彼女はMF銃を持っているとはいえ、白鳥のジュンほど身体を使って体技を繰り出すことはまずない。服装もしかり、白鳥のジュンは時代の要請かミニスカートを履きながらも大胆なハイキックをオープニングで披露していたりする(アンダースーツは着けているが)一方、ルナも体の線もあらわなピンクのワンピース姿だが(「キャシャーン」企画書に添えられたルナのラフスケッチを見ると、たおやかで線も細く、男が守るに値する高貴さを含んだ少女のように描かれていた。括弧内で余談に至り恐縮だが、それらのラフは極めて天野喜孝先生の画風に近似しており、いかに天野先生が吉田竜夫氏から得たものが大きいかが一目瞭然なのだ)、人間が太刀打ちできないロボット兵と格闘に及ぶことはまずなく、服が乱れて萌えポイントが加算される余地はない。ついでに言えば、白鳥のジュンは美少女として何とか認められ得る容姿の持ち主だと私の目には映っているが、上月ルナは歳が若い設定が影響しているのかどうか、有体に言って形象的に美少女のイデアから少し離れた場所にいるように思われてならない。そしていつもキャシャーンに付き添い、離れていればキャシャーン(東鉄也)の姿を追い求めるばかりという、幼い私は初見時においてキャシャーンの添え物的な、言ってしまえば地味な印象しか抱けなかったようだ。 そしていくばくか視聴を重ねるうち、だんだんルナの存在が私にはウザくなってきた。 それに似た感情とか、言葉の綾といったレベルで、私はこのように語っている訳ではない。 今にすれば、と前置きする必要もなく、しばしば画面を横切るルナの姿が、私にはウザかったのだ。 特に毎回本編の終了後に流れるEDで、ルナが一人疾走する止め絵が映るたび、何でこいつごときがこんな大写しになるんだよ、そうはっきり思っていたのだ。 そしてなぜ当時の私が、彼女に対しそこまで悪感情を抱いていたのか、本当につい先日までわかりかねていた。 しかし先日、この記事を書くための資料としてタツノコ作品史をまとめたMOOK本を確かめているうち、私がルナに対し肯定的な印象を持てなかった理由が判明したような、そんな気がした。 一言で言ってしまえば、これは一つの結論にもつながるのだが、上月ルナは個人で主体的に戦っていたからなのだ。 ルナがアンドロ軍団と戦う理由は、往時のアニメのようにどこかの特殊な国家(リアルな国家体制なのか、魔法の国のような架空の特質性を持つかにかかわらず)の姫君であるとか、主人公のチームメイトで運命を共にしていたり、主人公の想い人で足手まといになりつつも微力ながら主人公を助ける意向を持っている、というものでもない。まず彼女の父親が電子工学の権威で、鉄也の父親とは別枠でロボット兵に対抗し得る兵器、MF銃を開発しており、それが仇となって父親は殺され、彼女の手にMF銃が渡ってしまう。ここで彼女は父の仇アンドロ軍団に憎しみを抱く契機を持ち、かつ父の形見であるMF銃を所持するという重責を負ってしまったのだ。 このような構造は、もしこの作品という場において変身ヒーローものの枠組みが前提でないとしたら、主人公が戦う一個の理由、そして主人公が主人公たり得る理由として、充分な説得力を保持している。もしキャシャーンの存在がなくてルナが男の子であるとするならば、往時のアニメの文脈ではまず彼が主人公と措定されても遜色はなく、むしろ主人公の王道を確実に踏んでいると見ていいだろう。 しかしなぜ、往時の通例ならば主人公の添え物という役割しか与えられないはずのヒロインに、これほどヒーローに準じない形で主体的な戦う動機を持たせたのか?ということについて、今のところ確かめる術はない。先のMOOK本においても、wikiやその他ネットの情報においても、総監督である笹川ひろし氏の著作を当たっても、ルナについての詳しい記載は皆無に近い。その笹川監督の著作「ぶたもおだてりゃ木にのぼる」に到っては、製作統括者であるのにルナの設定に関する話は一切なく、ルナのCVが塚田恵美子さんである、という一介のデータとしてしか触れられていないのだ。 しかし殊、子供向け作品の名作にはこういうこと、つまり制作側が特異な設定や展開を自らの思想に基づいて最初から恣意的に作り上げることなどほとんどない、という事態が往々にしてあり得るものだ。件の「ウルトラマンタロウ」のプロデューサーで、他のウルトラシリーズや円谷特撮番組の制作や企画をも担当された熊谷健氏としばしば酒の席を共にした際、いろいろとオタク的な質問を吹っかける私に対し、私と同じような態度で取材を試みた同人の新聞風会誌を手にしながら、熊谷氏が「ボクたちは別にこんなややこしいこと、作ってる最中は考えたことないんだけどね」などという趣旨の弁明を繰り返されたのが、未だに深く強く印象に残っている。 ところがそのようなメタファーや寓意は、企画立案や作劇作業中において制作者や脚本家の頭の中に意識上か無意識下いずれかに必ず存在していて、製作現場でも個々の当事者に明確な認識はなくとも、現場やその時代の空気という形で確実に伝播し、彼らの脳裏に留まりその結果それぞれの仕事結果に反映されるものである。だから私は熊谷氏の言葉を文字通り捉えてそれにのみ準拠するような原理主義的判断を極力避けており、多様な視点からの読み込みと思考の派生逸脱を恐れない分析を行うようにしている。 そのようにして思い至った、ルナのヒロインとしては過剰ともいえるモチベーションの源泉は、現在のフェミニズム(男女参画社会という政治方針の起源)の更に原形、’70年代に世界レベルで勃興した男女同権運動、ウーマンリブに発すると私は推測する。 ここで恐らくほとんどの読者は、何だそんなことは誰でも考えつくじゃないか、と思われるだろうが、私の分析では上月ルナに備わる主体性は、ウーマンリブの考える主体性と必ずしも一致しない、いやむしろウーマンリブ活動家の抱く女性の主体性、つまり、ある種社会が暗に許容するという形で女性に課した甘えの構造に裏打ちされた、過渡的な誤解に基づく行動理念を、はるかに越えた次元で上月ルナは戦っている、と説明した方が私には納得がいく。 つまり先ほどは、ルナの持つ戦う内的動機がそれ自体一個の主人公として存立しうるほどの質を内包している、という旨の記述をしたが、更にアドバンスを加えた言葉を用いれば、ルナはたとえキャシャーン(東鉄也)と行動を共にしなくとも、アンドロ軍団と戦うだけのモチベーションを有しているのだ。 これは当該話を直に検証した訳ではないが、先のMOOK本中の本編第四話の解説に、苦闘の末MF銃を手にするに至ったルナが、共に戦うべく誘うキャシャーンを一旦は拒絶し、単身で戦いに赴く意志を見せる、という記載がある。これがこのまま進んでしまったら当時のアニメ文脈を逸脱してしまうので、当然ルナはキャシャーンと共に進む方向に落ち着くのだが、たとえドラマの高揚を図った演出だとしても、彼女のその拒否の姿勢に私はルナの主体性の強さを見出すのである。 このようなファクターは、戦闘アニメ美少女の嚆矢である白鳥のジュンからも見出せないばかりか、明らかにその当時までのアニメ、ひいては創作物総体における女性観を軽く超越している。 ではなぜその時点でこのような女性キャラクターが成立し得たのか、という点については、前述したように公的私的にもまだ判然とはしていない。まだウーマン・リブ運動が上月ルナの特異性の産出に直接の影響を与えた、とは明言できないのだ。 そしてキャシャーンに対する上月ルナの位置付けを、現在に流布するマンガ・アニメのキャラクターを用いて例えるとするなら、「鋼の錬金術師」におけるロイ・マスタングとリザ・ホークアイの関係に、あえて言えば一番近い、と私は考える(銃の使い手であることなどは偶然ながらまさに一致)。ホークアイも自らの裡に存する業に基づき彼と行動を共にしているが、動機そのものは必ずしも内的なものではなく、セントラル掌握というマスタングの意向に沿って形作られている向きが強い。もちろん自らの意志で判断し行動を執り、強靭な魂を有しているのは二人とも同じだが、ホークアイはどうしてもその行動理念をマスタングに負っているという点で、ルナに劣るとは言わないが、従来の女の枠組みからは逸脱していないように見えるのだ。 そしてここに至ると、主体的に戦うルナのキャラクターに幼い私が違和感を覚えた、という事態にも簡単に説明が付く。当時の私はまだ性的に未分化な幼子でしかなく、その上女性蔑視(もしくは女性自身の意志意向を無視する傾向)など当然な田舎の農家(の体裁を保持した家)の、それも長男坊という位置に担ぎ上げられていたため、自らの信念に基づいて行動するルナとかいった女は、女性として遵守すべき態度を執っていると認められなかった、つまり出しゃ張りな最低女に映ったのだ。 しかし今となっては、これまで私がブログなどで著わしてきた論述からも明らかなように、男に付き従い男の価値観に拠って男に依存することを当たり前として全く疑わない、つまり主体性のない女性など、私は御免被る。 そして私はいま、長門よりも天使ちゃんよりもきりりんよりもニンフよりも美琴よりも澪よりもイカよりも、誰よりも上月ルナに萌えているのだ(あ、でも沙織・バジーナも捨て難いか……)。 ちなみに、ちょうどこの1973年10月、サイボーグやロボットが主要な位置を占め、かつ女性が主体的な行動理念を持つことが物語の主題となっているアニメ、「ミラクル少女リミットちゃん」(‘73年10月1日)と「キューティーハニー」(‘73年10月13日) が「キャシャーン」(’73年10月2日)とほぼ同時に放映を開始している。製作始動の準備期間を考慮しても、これらの番組が互いに何らかの影響を与える余地はなく、同時多発的に発信されたものだと推測される。「キューティーハニー」は「ミラクル少女リミットちゃん」の枠で没になったのを拾われたという経緯があるが、「ハニー」原作(‘73年10月1日)の企図自体は永井先生が元々頭の隅にあったものと見てよいだろう。それに当初は少女マンガの枠内で’73年1月に始動した「エースをねらえ!」が次第に内的な深化を遂げ、岡ひろみの努力とそれにより築かれた実力の行使が軸となってきたのもちょうどこの時期だと推測され、しかも最初のアニメ版の放映開始(‘73年10月5日)も前三者とほぼ重なっている。 私はこの事態を見て、この頃の創作現場から発せられたある種の価値転換の初端として位置付け、仮に「1973年10月の変」と名付けたい。もちろんこれらの動向は偶発的なものではなく、それまでに脈々と蓄積された、価値固着に抗する人々の意志が時満ちて然るべく反映されたものだ、と私は考えている。そして将来的な話だか、この場で作品解題を行うばかりでなく、いずれ「萌え」を精緻に考察する基盤を築くため、’70年後半にエポックメーカー「うる星やつら」が出現するまでのヒロインの変遷を、極力クロニクルではなく彼女らの主体性と彼女らに属する概念を縦糸横糸にする形で、そう遠くないうちに論考する予定である。 今回は枚数を喰う事態になることは予想していたが、いざ書き上げてみると当ブログの最多枚数となってしまった。それだけ私が往時から徐々に自らの業を深く感じるようになった、というか今回はただの上月ルナ萌え表明なだけかもしれない。 さて次は、「新造人間キャシャーン」について他に何か、ただ今論ずべき点が見出されればその続きを著わし、その後に私にとってのお楽しみ、「破裏拳ポリマー」について語ろうと考えている。もし「キャシャーン」関連で枚数を裂く必要が薄ければ、久しぶりにオタクフルスペック全開と行きたいところだ。請うご期待。 第四十七回へ続く
by miyazawamagazine
| 2010-12-04 01:55
| 新造人間キャシャーン
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