三十八、永井豪その4 幼少児向け永井豪マンガ
永井豪先生の漫画といえば、「マジンガーZ」「ゲッターロボ」に代表されるアニメ原作提供用の戦闘ロボットもの、「ハレンチ学園」「けっこう仮面」といったエロスを前面に出したアナーキーなギャグもの、「デビルマン」「バイオレンスジャック」など少年マンガの枠を超え、人の業をあからさまに描いたバイオレンスもの、そんなラインナップが想起されやすいが、実は幼少児向けの雑誌を発表の場としたマンガも少なからず存在する。しかしもちろん永井先生のことだから、藤子不二夫先生や赤塚不二夫先生(赤塚マンガも当時はまだ眉をひそめられる存在だったが)あたりの作品で見られるような、当時の幼い読者に見せるため(というよりその親を納得させるため)の配慮を効かせた表現の自主抑制を、それらの作品ではほんの少しだけ打ち破っていた。傾向としては「イヤハヤ南友」や「キッカイくん」のように価値転換を基調にしているが、幼い読者を対象としているので精緻な論理構築は控えられており、その分直接的な破壊力が備わっていた。それでもやはり当時はそれらを読むことで、永井作品の持つ真価をただちに受け取るのは難しかったようだ。かの「マジンガーZ」と同じ作者であることは認識していたから名前を意識することはあったろうが、永井作品の真骨頂を理解するにはもう少し自身の成長を待たなければならなかった。 まず最初に私が永井マンガとして意識した作品は、「へんちんポコイダー」である。それ以前にも永井豪関連のマンガとして「Z」のスピンオフギャグ作品「ジャンジャジャ~ンボスボロットだ~い」に触れてはいたが、それは幼い私の目でもはっきり「永井先生の手によるものではない」との区別は出来ていた。 で、「へんちんポコイダー」とはすばり「仮面ライダー」のパロディである。しかしタイトルからも読み取れるように下ネタ満載で、無能な少年変珍太が自らの未発達な陰茎(つまりポコチン)を風車のようにぐるぐる回すことで力を得、へんちんポコイダーに変身して、不良や体制的な学校からの刺客とバカバカしい戦いを繰り広げるという、今にすればしょうもない内容だ。ポコチンをぐるぐる回すというのはもちろん、本郷猛がベルトの風車を回して超人力を得る行為のパロディであり、さすがに「おっぴろげジャンプ」みたいな露骨な性要素は表出されないが、それに近似したドタバタが戦いの場で巻き起こり、よくわからないうちに勝利を収めてしまうのである。内容としてはホントにこれだけ、それ以上はない。 ただ設定として面白いのが、珍太の同級生であるヒロインのユカちゃんは、これが最初から彼と相思相愛ということである。もちろん少年誌だから友達として仲の良い程度以上の進展は見せないが、彼女が敵の手に落ちてピンチに瀕した際、珍太がポコイダーに変身して敵を撃滅しても、ようはポコチン剝き出しの状態(マスクにモロ男性自身のシルエットが浮き出ている!)だから彼女に正体を明かすことができず、まして変身シーンなど見せられるものではなかった。これがまっとうなヒーローものなら別の意味で正体を隠す必要があり、そこがまた格好よく映るのだが、この作品の場合は情けなくも性的な理由から正体を明かせない、つまり自分の格好いいところをイメージとしても相手に意識させることができず、気を惹くためのアピールポイントを示すことができないのだ。 しかし別の見方をすれば、この状況は異性を意識し始めた頃の少年が誰しも抱く、根拠のはっきりしない劣等感を表現しているのではないだろうか。つまり自分が相手の女子を好きであること、更に言えば性的な感情で惹かれていることが相手に知れると、その彼女に根本的に嫌われてしまうのではないか、いやきっとそうに違いない、とまず考えてしまう。だから告白はおろか好意を抱いていることすら表立って明かしてはいけない、そういうある種潔癖な、というか相手(女子)が生来もとより潔癖であると勝手に断定して、その異性に気に入ってもらうには自らも潔癖でなければならないと思っているが、実際にはそうでない、という葛藤から来る苦悩である。もちろんその誤解が、女性たるもの潔癖でなければならない、という極めて一時措置的な、社会的に押し付けられた倫理観から来ているのは間違いないだろう(このことに関してはキリスト教など、宗教的倫理絡みで詳しく解説する必要が適時出てくるので、またその際に論述することにする)。その男子がもう少し成長して女性を冷静に観察し分析する目を持つようになれば、若い頃思い込んでいたほど女性は潔癖なものでないし、普段の関係が良好であれば向こうもこちらをある程度性的に意識してしまうものだし、むしろ男性が抱くのとほぼ変わらない性的な懊悩を彼女らも日々覚えている、そういう真実を容易に理解するだろう。一方そんな誤解があるから、現在でもネットで云々されている類の処女信仰が未だに根強く残っているし、その意識がドラスティックにひっくり返った際に生ずる性的暴走も少なくない頻度で起きてしまう。「へんちんポコイダー」という作品は片鱗ながら、そんな誤解をギャグ(物語)に利用したもっとも低年齢向けのマンガだろう。そしてそんな状況を相応な年齢層に当てリアルに表現した作品として、長谷川法世先生の描いた「博多っ子純情」などが挙げられる。 「へんちんポコイダー」を論ずるのだからもっと下品な内容になるだろう、と思っていたら、案外まともに分析モードが発動してしまったようだ。こういうことがあるから、私もこのコラムを執筆するのが結構楽しみなのである。 ちなみに発表されてからずいぶん後年になって、「まぼろしパンティ対へんちんポコイダー」(しかし凄い題名である)として映像化されたが、アダルトビデオの企画もの以上の内容を保有しておらず、せいぜい言ってB級志向で有名な河崎実監督のオマージュ的表出物にしか見えないので、この論述からは外す。 「へんちんポコイダー」にしてもそうだが、永井作品に限らずこの時代に人気を博した児童向け短編マンガは初出誌のみの掲載に留まらず、時を置かずに他誌でも別冊付録などで再録され出版される例が多かったので、その類の作品は初出典誌を特定せず触れた時代順に紹介する。 その次に目にしたのは「キングボンバ」という作品だ。これも変身ヒーローものだが、パロディ要素はなくむしろ王道を踏んでいた。例によって話の詳しい設定や筋は覚えていないが、主人公の少年が神秘の力を持つ太鼓を叩くと、最強の毒蛇キングコブラの化身のような超人キングボンバに変身し、敵対する妖しい組織と戦う、という物語だったと記憶している。そしてその主人公が太鼓を叩く時、バックに昼なお暗い熱帯雨林様の密林が配され、その闇中で「トン、トコ、トン」というパーカッションの打音が一種不気味に、かつ土俗的な高揚感を以って浮かび上がる描写が強く印象に残っている。のちに資料を確かめたところ、やはり「鋼鉄ジーグ」の邪魔台国に似た勢力が敵として設けられていて、全体的に土俗的な雰囲気が強かったようだ。 これとほぼ同じ時期に、先ほど述べたように別冊付録で載せられた「快傑シャッフル」という作品にも触れている。この作品は厳密な永井豪作品ではなく、そのノベライズ作品を多く手掛けたダイナミックプロの永井泰宇先生(ちなみに豪先生の実兄ということ)の原作で、作画は石川賢先生だ。話は明らかに豪作品の流れを組んでおり、特異な体技(忍術ということらしい)を会得する男が覆面で快傑シャッフルと名乗り、鉄板で出来たトランプといった暗器を操るなどして、法の網をくぐって悪事を働くギャング集団と戦う、という話である。 相手は明白な犯罪集団なのだから当然警察も関わってくるが、幼い私に疑念を起こさせたのは、その警察に属するはずの血気走った鬼警部が、ギャング集団と同等に快傑シャッフルをも犯罪者と見なして縄をかけようと奔走していた事態である。快傑シャッフルは、少なくとも読者にとって正義の味方以外の何者でもないのに、警察が犯罪者と裁定して追い回すとは一体どういうことなんだ?と当時の私はこの小冊子を読みながら不思議に思っていた。 しかし今なら、正義の味方が治安組織に追われるという構造は容易に理解できる。ある者が社会正義を実現させようと行動していても、必ずしも順法意識を持ってはいないし、少なくともその義憤の行動が触法しないとは限らないのだ。わかりやすい例を挙げれば娯楽時代劇「必殺」シリーズと同じ構造であり、これは「必殺」そのものの企画意図とも重なってくるが、要は両者とも主人公が体制側とは異なる社会正義を実現しようとしている、つまり前述したように、学生運動の敗北を受けて表出された「個的な正義の味方」を描こうとしているのだ。このトピックについてももちろん、のちのち詳しく取り上げることになる。 また同じような経緯で、「アラ~くん」という小編も目にしていた。これについても内容はほぼ覚えていないが、永井豪作品にしては珍しく、児童向けの枠を超えない正統なギャグマンガだったことは何となく頭に残っている(資料を当たっても、まるで「ドラえもん」みたいだったという記述がある)。ただ冒頭部だけははっきりと覚えていて、題名どおり主人公のアラーくんは魔法のような能力を持っているが、転入した先のクラスで自己紹介の際「自分は特別だ」などと触れ回ったところ、ヒロインらしき女の子が同じクラスにいる奇人変人(特殊能力はない)を列挙して、「あなただけが特別なことなんてないのよ」的な言葉でアラーくんの鼻をへし折ったのだ。おそらく永井豪エッセンスが表に出ているのはその部分だけだったから、後に続く話が記憶に残っていないのだろう。 そして幼少時期に私が触れた永井豪マンガ作品の中で、全盛期に通ずる永井豪要素が一番強かった作品が、ごく一部の間でカルト的な人気を誇る「ガルラ」だ。これも初出は児童誌、話は「ゴジラ」に似た経緯で、ガルラという謎の巨大生物が日本に上陸するところから始まる。ガルラが都市部に入ってからもまるっきりゴジラのように暴れまくって破壊の限りを尽くし、主人公とされる鳳隼人という青年がマジンガーZ(格好はどちらかというと機械獣)のようなロボット兵器に乗り込んでガルラ撃滅に就く。幼い目にはマジンガー対ゴジラという夢のような展開になってきて、セオリーどおりに緒戦はガルラに敗退し、隼人は再戦を待つ身となる。しかし読み進めていくうち、そのあたりで少し奇妙な流れになってきたような気が当時はした。何が奇妙だったのか具体的には覚えていないが、資料によれば隼人はガルラに触れて、不思議に因縁めいた感覚を受けるとある。そして再びの対峙となるが、その時なぜか隼人はロボットに載ってはいなかった。これも資料によると、なぜかUFOが突然出てきて騒ぎとなり、アーサー・C・クラークの「(地球)幼年期の終わり」のような展開になるとある。 そしてここからは明瞭に筋を覚えている。ガルラはその時舞台となっていた火山の噴火口付近でUFOと相対し、その頭上に何の脈絡もなく炎に包まれた巨大な鳥が出現する(火口から飛び出したのかもしれない)。そしてまた何の伏線もなく、思わぬ事態に驚く隼人の前に旅の僧侶が現われる。そして僧侶はいきなり隼人に強い調子で告げる。ガルラ、飛んできた火の鳥、そしてお前、鳳隼人は、人類を救済する仏身が三つに分かれた姿である。突然の脅威から人類が根本的に救われるためには、お前たち三身が一緒になる必要があるのだ、と。このあたりは、仏教における仏法僧すなわち「三宝」、もしくは永井豪先生お好みのキリスト教の、「三位一体」の概念あたりから材を取ったと思われる。そして、そうすれば仏身の真の姿、(二十八衆のひとつ)迦楼羅(かるら)がこの世に現出する、という。訳がわからず戸惑う隼人に僧侶はたたみ掛ける。さあ、お前はあの火の鳥(これも迦楼羅という名らしいが)に身を投じて焼かれるのだ。そしてそれをガルラが喰った瞬間、人類は救われる道をたどることになる。さあ、さあ!なおも戸惑う隼人の姿を映したまま、話は唐突に終わる。 まるで「新世紀エヴァンゲリオン」TV版第弐拾四話を放映した時点でいきなり製作自体を切ってしまったような結末だが、これに関しては意図的なものでなかったようだ。永井先生自身はその先を続けるつもりで「第一部 完」という言葉を巻末に付け足したが、事実上は、内容が難解になるのを恐れた編集サイドが打ち切ってしまったということらしい。アニメ版とまったく違うマンガ版「デビルマン」の結末を見て恐れをなしたマガジン編集部が、同時に連載していた「マジンガーZ」を未完のまま終わらせてしまったという前例があるから、充分考えられることではある。もちろん今となれば、その先に描かれるべき隼人の葛藤と救済のありさまが如何なるものか期待されるし、ダイナミックプロ側も掲載誌を他所に移してでも続ける意向を持つだろうし、それを拾いたがるマンガ誌も事欠かないだろう。でもその当時、この先を続けることができなかったのは充分に理解できる。 論はいささかずれるが、そういった経緯でエネルギーを保持しつつも完結を待たず終了せざるを得なかったマンガは、「サイボーグ009」を始め他の作者でも多数の例がある。逆に言えば、それだけの挑戦心とエネルギーを持ったマンガ家、作家が当時は多数存在したので、マンガというコンテンツは時代を引っ張るほどのパワーを持ち得たのだ。ただ、まさしく永井豪作品に多大なインスパイアを受けた庵野秀明監督が、意図しなかったとは言え「新世紀エヴァンゲリオン」でほぼ同じベクトルの製作状況に陥ってしまった結果、その当時製作サイドで新たなパワーを持ちつつあったアニメの現場において、作劇の主導権を制作サイドが専ら握ることとなったようだ。実際に「エヴァ」の件がどれくらい影響しているか検証のしようはないが、そういう流れが強くなっているのは確かだ。そして企画段階でも商業的な成功をもたらす要素のみが精緻に求められ、アニメ製作が質的な閉塞状態にはまったことは日本の表現界全体にとっての不幸だと言えよう。ここに至るともはや日本において、協同作業の必要な製作現場で作家性を表出することは出来ないだろう、と私は考える。しかしこの話を続けると、もうアニメに責を置くだけでは収まらない展開を内包しているで、このことはまた別枠で述べることにする。 話を戻せば、今や仏陀の説かれた法を学ぶ者として私は「ガルラ」の続きを切望する。仏教の真義に気付いていない隼人が、自らの身を挺して人類の救済を図るか、自らの犠牲を厭うて人類の落日を共に見届けるのか、どちらを選ぶかが一つの見ものであるし、救済を選んだ際そののち先生がどういう展開を示すのか非常に気になるのだ。永井豪先生自身はやはり「デビルマン」や「マジンガーZ」にいたく執着されているようで、直接にはつながらないがのちのちにも続編を発表されており、ここで「ガルラ」を、という声は先生のお耳に届かないだろうか。 今回は著わすべき内容が早くに決まっていて、もっと分量も執筆時間も短くなるものと思っていたが、頭とラストの論題で意図せずにヒートアップしてしまい、結果この場での最長記録に迫る勢いで筆を走らせてしまった。 そして永井豪先生に関しては、当然ここで論述が終わるはずはない。下って高校時分に原作の方の「デビルマン」を目にしてのち永井豪という悪性腫瘍が発覚し、現在に至ってはもはやその腫瘍自体が自分の本身ではないかと疑うようにさえなった。だからその機会が来れば、書くべき事柄はそれこそ山ほどある。 しかし、これほど永井豪フリークを標榜している私でも、実はまだ押さえていない作品が結構残っている。確実に自分自身の仕事の参考になるので「バイオレンスジャック」などは早めに頭に取り込むつもりだが、資料を見る限り個人的には「夢少女レイ」「おれのロリータ」といった性的妄想系も見つかり次第手元に置きたい所存だ。 次こそはタツノコプロ作品を、と思ったら、ちょうど幼児期に観た覚えのある大映初期特撮映画がCSでちかぢか放映されると予定表にあり、そういえば先にそれらを取り上げる機を失していたので、まず「宇宙人東京に現わる」あたりの大映特撮を取り上げることにする。ただ、ある種独特な宗教観を内包しているという意味合いで、永井豪作品とタツノコ作品は直接のリンクはないが方法的に重なる部分があるので、読者諸兄もブランクを経ることでテンションを落とさないようにしていただきたい。では、次回を請うご期待。 第三十九回へ続く
by miyazawamagazine
| 2010-10-09 02:14
| 永井豪
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