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本日の朝も遅くないので、新年の挨拶はこれで留めておきます。 本来なら昨年の総括、特にここ的には自主企画で催した「Cinema Live 8mmフィルムで見る佐賀の過去・現在・未来」の詳細なレポートを載せなければならなかったですし、とにかく他にも書くネタは山ほどあるのに、忙しすぎて自分のブログすら更新する精神的余裕がありませんでした。 「宮ゲ!」にしても、例の二次元性表現規制問題にかまけて「タツノコプロ・破裏拳ポリマーその2」の更新も出来ない状態が長らく続き、誠に申し訳ない次第です。 即時性が求められるトピックの場合は割合早く対応し記載するのですが、自分の動きとなるとそれに関わる人に事細かくしゃべってしまうので、目の前ですぐ伝えられて満足してしまい、わざわざブログにに上げるモチベーションが持たないんですよ。言い訳にしか過ぎませんが。 ともかく、なるべく近々に昨年のレポートや総括、今年の抱負などを載せるべく精進いたしますが、新年を向かえリアルの仕事量がハンパでないので、その間隙を縫って挟み込んでいく形で更新を怠らないようにしたいと思います。では。
先日の土日、私が企画・映写技師・司会進行を担ったイベント「8mmフィルムで見る佐賀の過去、現在、未来」も無事に終わり、いや無事どころか関係者を含め周りまでも異様にに盛り上がっちゃって、これからまたいろんな新企画や仕事を進めなければならない状況に陥り、嬉しい悲鳴を挙げているところですが、このイベントについての詳しいレポートは落ち着いてから「8mm技術保存研究所」で公開することにして、今回はいろいろ動いている中で親しくなったお店を紹介する記事を載せたいと思います。
![]() ホビーショップと言えば、いわゆるマンガ、アニメ関係のフィギュアやグッズを販売しているお店です。他に佐賀でその手の店を挙げるとすればマンガ倉庫佐賀店、ゆめタウン内のホビーゾーン、モラージュ内のアニメイトなんかが出てきます。 が、そんなところはチェーン展開してたり販売組織として固まりすぎていたり、もちろん中央からのプッシュがあれば最新アニメのグッズを早期入荷するのが可能、とかいうメリットもありますが、組織の大きさ故、上からの押し付けもあるのか対応面での小回りが効かず、お客さんとのコミニュケーションが密に出来ないように伺えます。 そこへ行くと、この「インスピ」は店舗こそ小規模でマスターの一存により体制が固められ、ただ今こちらではほぼワンピースグッズ押しの状態ですが、お客さんの要望によりジャンルを問わず新規取り寄せや中古入荷も可能で、そういう要望を聞いたり単にオタク話に華を咲かせたり、また店舗が広めでない故にお客さん同士のコミニュケーションが取りやすかったりと、インタラクティブ(双方向情報発信)な利用が可能だということが佐賀における他のホビーショップと一線を画している、と私は見ています。もちろん、お店のカウンターの外と中との距離感もあまり感じられません。私もヒマが出来ればダベりにだけでも行くことがあります。 要は気軽に話が出来、深い話も出来、タイミングがよければ逸品が手に入るかも知れない、そんなお店です。 お店の概要は上に挙げたチラシに即していて、買取も行なっています。 その手の濃いお客さんも、ボチボチ集結しつつあります。 そして私も単なるお客さんとしてだけでなく、発信者の一人としてお店を盛り上げるための仕掛けを小さくちょこちょこ盛り込んでみよう、などと画策しています。 佐賀の他店とは物量(クォンティティー)の面でディスアドバンテージを喰らっていますので、こちらはクオリティーで勝負せざるをえません。ですからその方向性で推し進めることになるでしょうし、私も微力ながらその一翼を担い、将来的にはハッカー(ここでは、深くて前向きなオタク、の意)のたまり場になってくれればな、と期待しています。 場所が駅前北口に極めて近いので、ご興味を持たれた方は佐賀駅北口を出て西(長崎・佐世保方面)にまっすぐ行ってみてください。連絡先は090-1194-7606です。運がよければ私がいて、オタク属性のファンネルを飛ばしまくってます。では。 ![]() 前々から自前で8mmのイベントやるイベントやる、とネットでもリアルでも後ろ盾も乏しいのに大言壮語していましたが、この度ようやく佐賀市の方で企画が通って、今秋にイベントが開催される運びとなりました。 イベントの内容については、上記のチラシ(これを拡大印刷してポスターに仕立てます)に表わしてある通りで、会場の管理責任者である佐賀市が予定を違える事態でも起こらない限り、変更は加わらないものと考えております。 上記のチラシでは記載すべき最小限の情報+αで収めていますが、当初の予定にない変更が生じた場合、当ブログおよび私が管理する複数のブログ経由で逐次お伝えいたします。 もちろん当日配布するプログラムには、当日の上映スケジュールを明記いたします。 それとこれは小情報ですが、本イベントで古いフィルムばかり扱っていて一般のおさん客には問題なくとも、作家でもある主催者としては物足りない、と春前より新作8mm映画の企画を立てておりました。そして始動以降、マネジメント面も撮影進行も極めてうまく行っていたのですが、 肝心のフジカラーラボの対応が先日さらに悪くなり、特に当初向こうが提示していた現像期間も延びて実際の納品期日も格段に遅滞を来たし、予定では当日に楽勝で上映できるはずだったのが、今出しているフィルムが来月初頭以降しか上がらないとなっては、本上映会の初公開を見送らざるを得ませんでした。完成すれば今日日のプロ・アマ問わず着目してしまう作品を佐賀から、と思っていましたが、作品のクオリティ重視を主眼とすれば、公開延期は致し方ないことたと考えます、 ともあれ、地元民談「佐賀にはなんもなか」と称されるこの佐賀で、このような本格的映像イベントを興すのは戦後の映画絶頂期以来のことと見受けますので、ちっょとでも古い佐賀の映像に興味が御座いましたら、上記のポスターをご参照の上、柳町の歴史民俗館までお出でください。 また映像製作を志す学生さん方、映像製作や撮影に興味のある学生と生徒の皆さんは、先人の映像・撮影姿勢を学ぶ絶好のチャンスだと考えますので、課題やarbeitに追われていない方であれば、温故知新の意味合いで一目の価値アリです。 ともかく、佐賀歴史民俗館で古いフィルムの特別上映会を行ないます。期間内、会場は入場無料です。特に映像にご興味ない方でも、週休の穴埋めながてら、お気軽にお出でください。 そして下に改めて、期日会場等の告知情報を列記します。 午後2時~午後4時 ところ:佐賀市歴史民俗館・旧古賀銀行(佐賀市柳町2番9号) 入場無料 主催:宮澤動画工房(連絡先 080-2741-5176 西岡宛て) それでは皆さんのお越しを、大変楽しみにお待ちしております 宮澤英夫(西岡英和) この動画は、先日も製作発表を行なった宮澤動画工房初のオリジナルドラマ、「死刑代執行人」の撮影現場を撮ったビデオ映像を短くまとめ、メイキング風に見せると同時に予告編ぽく構成したものです。 本来ならこの動画は「8mm技術保存研究所」に貼ってしかるべきものなのですが、例によって動画を貼り付けることが不可能でしたので代打としてこちらに持ってきたのと、このブログが他の当方管理ブログに比べあまりに更新していなかったので、ヒット数稼ぎの賑やかしも意図しての掲載です。 動画中の字幕に載せている情報は、先日の製作発表のものとほぼ変わりませんので、当ブログの読者諸兄は撮影中の空気と字幕演出のハッタリ具合をお楽しみください。
今夏、九州は佐賀県所在の「宮澤動画工房」における、新作自主映画の製作始動をお知らせいたします。
題名:「死刑代執行人」 あらすじ:幹部候補生として警察本庁に入庁したが、不始末が元で九州の佐賀県に飛ばされてしまった元キャリア組の警部補、馬島拓也。彼は佐賀の地でも懲りずに怪しい捜査を続け、九州方面に逃げのびてきた巨悪に対し、言葉だけを武器に制裁を下す。それを支える不気味な上司、岡部警部。彼らの素性を探ろうと画策する俊英、梶浦巡査部長。それぞれの思惑が錯綜する中、今日も馬島は法の網を逃れようとする狡猾な老人達に立ち挑む。今回のターゲットは元中央インフラ官僚、新村収一。 スタッフ プロデューサー・脚本・監督:宮澤 英夫(「宮澤動画工房」所属作家筆頭) 製作協力:中村 隆敏(佐賀大学文化教育学部准教授) 撮影:下津 優太(自主製作映画「リア充商店街」監督) キャスト 馬島 拓也(主演):今村 一希(佐賀大学演劇部) 岡部 正:西岡 英和(筆名宮澤英夫、監督と兼任) 梶浦和樹:黒木 惟(佐賀大学演劇部) 女性アナウンサー:大津 侑子(佐賀大学演劇部) 新村収一役、及び照明・音声等のサポートスタッフは未定。 撮影フォーマットは8mmフィルム、完成予想尺数は約30分。 初公開は11月5日、6日両日、佐賀市内・佐賀市立歴史民俗館の宮澤動画工房主催イベントにてプレミア上映の予定。 以降、自主映画上映会への出品、DVD販売、ネット動画サイトにアップロード、ケーブルTV放映等の手段で公開、配信経路を模索。 附記し得る記載事項は、後々追って補足し更新します。 なお、いま現在、下に示したような絵コンテを作成中です。 ![]()
3.11
私、宮澤英夫(西岡英和)の誕生日であります。 そして某メールマガジンなどで、9.11に倣ったのか東日本大震災を指す言葉として用いられています。 本厄を迎えたこの折、ちょうど私も複数の新しい事業を立ち上げようと画策し、何とか年度代わりには新体制が敷ける、と意気高揚していたところでした。 その晩にいちおう内々で誕生パーティーなどを開いてもらったのですが、グラスを傾ける傍らテレビ画面から悲惨を超える超衝撃的な映像と、背筋が凍結どころか石化にまで至るような報道が次々と押し寄せ、この先日本はどうなってしまうのだろう、と酔いで紛らすことも出来ず、とりあえず明日は朝一で毛布をあるだけ洗おうなどと決心していました。 その後の展開は皆さんご存知の通りで、原発の件を覗けば、それでも困難な道のりではあるかもしれませんが、恐慌と比する混乱も生じず(まだ放射能云々でバインドがかかっている部分がありますが)着々と復興に向け全日本が動き始め、全世界も他人事ならざる災厄と見て援助を惜しまない姿勢が大勢を占めているようです。 そして私も、映像製作において佐賀の素材を自分自身のために利用しよう、という発想のもと活動を展開しようという意向が存したのですが、この度の震災を受けて意識のベクトルが少し変化し、また震災直前に発覚した映像に関する別の要因にも基づいて、ある程度事業内容を変更することにしました。 もちろん復興支援に寄与する映像コンテンツの製作やそれに類する活動、また佐賀の地盤を一方的に利用するばかりでなく佐賀在住の方々に直接訴えるような映像制作、そしてプレゼンテーションに力を入れることにしました。 で、何やかやと進めたり指針を変えたりしている状態で心身ともに辛い状態ではないかというとそうでもなく、むしろこんな状況だからこそ燃えております。 殊に他人のことなど無関心を通り越して、不可侵であるのが得策だと割り切る日本人の風潮を、もとより苦々しく思っていたところですが、コレがあって以来どうでも意識を変えざるを得なくなったようで、自発的に何か他人のために自分が出来ることをしよう、という意向が大勢となり、それと同時に、何々があったから不謹慎と見て自粛しよう、という経済総体の遅延を招く不毛な形式的思考停止に陥る頻度も少なくはなったようです。それでもまだ、直接被害や影響の及ばない地域の愚者が被災地に想いを馳せないばかりか、被災者の気持ちを汲もうとせず自分たちと同じ環境にいる感覚で、勝手な言を弄ずる例も少なくありません。 しかし震災以前の日本人に蔓延していた「豊かで当たり前」という贅沢で愚昧な空気は取り払われつつあるようですから、私のように「自分でやろう」と考える人間にとって動きやすい環境にシフトしかかっているのは事実で、この基盤の元でいかにさまざまな展開を仕掛けていこうか、などと楽しい悲鳴をただいまの私は挙げております。 ということで、何の因果か折も折、私の誕生日に日本の危機が始まってしまいましたが、私自身はこの逆風をセイリングテクニックによって正の推進力に変換するつもりです。 そのメルクマール(指標)として、事業自体は既に動き出していますが、ここで正式に、 映像製作所「宮澤動画工房」立ち上げを宣言します。 そして発足期日は、いかにもな感じですが2011.3.11と致します。 こんな状況下なので、本始動はしばらく後となります。始動後の活動予定などはまた後ほど、追々固まり次第お伝えすることに致します。では。 補足:こういった事情もあり、ただでさえ遅れに遅れまくっている「宮澤英夫のゲーム!特撮!アニメ!マンガ!」の更新は延期、もしくは期日そのものを不定期にせざるを得なくなりました。 しかしながら、宮澤英夫マガジンで鋭意連載中の「青少年健全育成条例に対する苦言」については、ちょうどただいま東京都知事選が繰り広げられておりますので、場合によっては都知事選出後に間を置かず考察ラストの更新を行う演出などを考えております。 だいぶ穴を空けてしまい恐縮の至りですが、次回を請う御期待。
「宮ゲ!」番外編 「東京都青少年健全育成条例改正案」可決について・その4
さて前回で表現規制が、社会通念に倣って一定の行動規範を設ける「倫理」に基づくものではなく、人の心の在り方までをも制限する「宗教」に基づくものであることを論証しましたが、さて現代に生きる日本人のどこに規制を求める類の「宗教心」が存在するのでしょうか。 日本の土着宗教はいわゆる「神道」ですが、これは他の世界宗教ほど性意識に対する嫌悪を教義化するものではありませんし、そもそも教義そのものが存在しません。 次いで飛鳥時代に「仏教」が入ってきましたが、この仏教においてはどうも日本に入ってきたあたりで、子孫繁栄そのものをも否定する類の厳密な仏陀の教えの一部が完全に廃棄され、神仏習合思想なども相まって仏教色の薄まった宗教(そもそも仏陀は仏教という宗教の形で教えを伝えるつもりはなかった、という説もありますが)と化していたようです。 仏教の次に興り、こちらは姦淫のみを厳しく戒めた世界宗教、「キリスト教」と、それに基づく「イスラム教」はなかなか日本に流入することはなく、ポルトガル人などの宣教師が流れてきてカソリックの布教を始めると、豊臣秀吉以降の為政者は邪教として追放、御禁制の烙印を押し、イスラム教に至っては影も射すことはありませんでした。 社会体制的には、室町末期以来の争乱が落ち着き、一抹の平安を謳歌し文化を爛熟させた江戸時代でも、社会的にはさほど性意識に対する嫌悪感が顕示されることはまだなく、せいぜい吉原あたりの公娼遊郭が幕府主導の改革で、風俗のびん乱を理由に営業の制限を課されたくらいで(私娼はもとより非合法)、表現物において規制が定められることは表面的には存在しても、人の心の胸ぐらをつかむ類の強硬な精神規制は行われませんでした。 そして明治維新を経て日本が宗教的にも門戸を開くようになっても、キリスト教の宗教性そのものが日本に根付くことはなく、寺社よりはるかに数の少ない教会や学校、そして矯風会といった思想団体などが細々とキリスト教精神に準じていたようです。 やはり宗教面で日本に大きな動きが生じたのは第二次世界大戦後で、占領軍(主にアメリカ)がGHQを設けて日本の精神性の洗い直しを行い、それに伴ってキリスト教の影響力を強化しようと図った(表向きは日本を再び侵略国家にしないため、真意は日本をキリスト教圏に巻き込んで共産圏の防波堤にするため)のです。しかしその際も、人文主義的(humanism, 一般的な訳は人道主義、本義は人間を被造物[神により作られた神より下位の存在]の頂点に置く人間中心主義)な傲慢さは受け入れられることなく、合理的な倫理意識がより取り入れられる傾向にありましたが、人文主義に基づく人権意識はそれまで虐げられていた勢力、殊に女性の目に留まり、矯風会などの女権団体が活性化する起因ともなったようです。 が、外面的に今日の日本はキリスト教の影響化にはないように見えるのに、現代日本の性表現、もっと言えば性そのものに対する嫌悪感や拒否感は、明らかにキリスト教的(語弊があれば一神教的)宗教観に基づいているように見受けられます。もちろん今日の日本文化の表層は他の国際化したアジア諸国同様に欧米文化の焼き直しであり、欧米文化がキリスト教に根ざしている限りキリスト教の影響下にあるとは言えますが、なぜか性や性意識に対する忌避だけは、キリスト教的人文主義のあからさまなカーボンコピーとしか私には映りません。 ではこの明確な宗教心に基づかない、かといって社会的倫理に範を帰すにはあまりに狭隘な、性に対する否定的な観念はどこから産出されているだろう、と考えながら以前の記述を確認していたところ、それを説明するのに最も適切な言葉及び概念を、以前の私の記述中より見出すことができました。 それは、キーワードとしては「禁忌」というもので、要するに日本人は性観念を否定するのに、どちらかといえば複雑な考察を必要とする宗教的教義に基づかず、もっと生理的な情動に関わる「禁忌」の枠にはめ込んでしまったのです。 この日本人における禁忌の初端は何もキリスト教流入に始まったものではなく、神道成立の原初である記紀の時代に「穢れ」としてすでに存在していました。しかしそれらの穢れは、人間や動植物の不健康状態もしくは死による流血や腐敗、異臭を忌避するという実質的な不衛生に対して向けられるものでありました。 それが時代を経るに従って、欧米や大陸と同じように刺激誘引対象そのものが努めて隠蔽されるようになり、女性の月経や産褥等、人に於いて血を伴わなければならない事態に対する観念的嫌悪に転化していき、そのあたりから女性に対する過剰な差別心が生じたのも事実でしょう。男は病気や事故以外では戦場でしか血を流さないものであり、江戸時代に至っては血を流すべき戦場そのものがなくなってしまいましたから、医学生物学的知識認識の乏しいその当時、形骸的には上位にある男が女性の存在態に禁忌を認めたのも自明でしょうし、戦国以来の意識から女性もその立ち位置を異性に委ねるより他になかったのでしょう。それでも性そのものに対する禁忌を覚えることは、少なくとも民衆の間においては存在しなかったでしょうし、為政者や有力者の間では性意識よりも(富の集積を図り散逸を防ぐため)血統存続の方がはるかに重要視されていましたから、現代ほど忌み嫌われることはなかったはずです。 そして大正から昭和に至るあたりで一度だけ、日本人が他の宗教心に依らず性の禁忌を設けることになったのです。私の推測では恐らく日露戦争を苦境の内に終え、国力を裏付ける資源が乏しくなった日本と列強諸外国との摩擦が顕著になったあたりだと思います。明確な線引きは資料不足で正確には叶いませんが、兵力を増強するため多産を強要しつつ、風紀を乱し団結心、ひいては愛国心を削ぐ、という理由(思い込みに依る言いがかり)で個人的欲望の発露を国策により禁じる(欲望を国策で禁じる、と書くと凄い響きですが、諸資料を当たった限り事実なようです)、一種矛盾した風潮の起源は、恐らくこの辺りです。 そんな実質を伴わない精神論が物量と大陸合理論、いや合理的な組織力を持つ対戦相手に叶うはずがなく、敗戦後は勝敗両陣営の思惑により過剰な精神論が否定されていきますが、女権拡大を目的とする勢力だけはこの種の精神論に魅力を覚え、かつ実践に際し有効に映ったため、恐らくGHQも意識しないうちにこの勢力だけが旧日本的観念を、その形を歪めることなく引き継いだようです。 そして彼らが自らの目的を果たすため、戦略的に社会に植えつけることに成功した観念は、性意識そのものを「禁忌」となしたことに他なりません。 恐らく彼らは以前の日本帝国政府と同じく、女権拡大を図るという目的を遂行することが絶対的な第一義となってしまい、その過激な方法運用に依る悪影響のことなど考慮どころか視野にすら入らなかったのでしょう。 今回もまたまた本論に移る前に、前置きとして済ますはずだった日本の性意識に関する宗教観の遷移の記述部が想定外に膨らんでしまい、規定枚数に至ってしまいました。本来ならこの部分も、本一冊費やす覚悟で分析論述しなければならない論題ではありますが、この場ではでき得る限り精緻かつ簡便にまとまるよう努力した所存です。 次回こそラスト、と言いたいところですが更に続く可能性が無きにしも在らず、としか申せません。ですが本人としては次回こそ、今回予定していた論証を完成させる心持ちです。請うご期待。
定期購読者の方はもうご存知だと思われますが、今週の「宮澤英夫のゲーム!特撮!アニメ!マンガ!」は家庭の諸事情より(変な意味ではありません)延期させていただきました。
もちろん仕事が忙しいからと、こちらにしわ寄せを及ぼす所存ではなかったのですが、なにぶん事態の急変で私自身が前面で動かなければなりませんでしたので、懸案の仕事と天秤にかけるとこちらを後回しにせざるを得ませんでした。 それにタイミング悪く、「青少年健全育成条例」について本気で反駁していたところが、これも諸々あって休載を余儀なくされていて、その上でこのたびの有り様なので正直、自分でも頭をかかえている状態です。 しかし、どちらにしろ「宮ゲ!」の連載中止・無理やり終了などという丸投げな事態は絶対に避けたいですし、著わしたいネタも阿蘇山のカルデラを埋めるくらい、いや今後も恐らく新ネタがサンゴの産卵のように産出されることになると思いますので、老境に至ろうが四肢が動かなくなろうが、意地でも連載を維持していく所存です。 次週は先週の予告どおり、マンガ・アニメ規制に対する反論表明の、恐らくラストです。請うご期待。
「宮ゲ!」番外編 「東京都青少年健全育成条例改正案」可決について物申す・その3
さて、このたび可決された由々しき表現規制法令について述べた、一連の記事の更新から二回飛んだ形になってしまいましたが、もちろん頓挫中断はせず論を予定通り完結させるつもりでおります。というか、ここで私がこの件について論理的な反駁を世に出しておかないと、賛成派に与するソフィストたちの口車によって規制が強化された時、彼ら及び為政者に立ち向かう武器を欠いた状態で表現者の方々は戦わなければならないからです。もちろん社会学や統計学、心理学や史学などの各学問分野でもって異議の後ろ盾を行う方は大勢いらっしゃいますが、哲学、そして宗教(宗教学含む)の見地から反論を提示する余地を残しておかないと、殊に宗教側の論者は偏向した倫理観によって、規制賛成のもっともらしい論拠を賛成派の為政者・他の分野の論者に容易に与えてしまい、前回も述べましたが無言の言論弾圧が行われる可能性があるのです。 もう本論の片鱗を先走りであげつらってしまいましたが、今回はこの一連の論述を通して私が主張している、性的欲望の否定は宗教に基づく、という命題の本格的な論証を行いたいと思います。 まず簡単に、宗教がいかにして性欲を悪徳と見なすようになったか、その過程を特定の事例を挙げずに説明したいと思います。 最初に、宗教心の起源は私の推測するに「死への恐怖」です。厳密な意味で宗教心の起源は何かという話になると、いま現在でも学者論者の間で諸説紛々ですが、一般的な見解として「死への恐怖」が宗教心の重要な源泉の一つであることは間違いなく、私は今回恣意的にこの定義を積極的に用います。 およそ生きている生物である限り、その認識主体の生体が滅びるという事態は、その主体たる本人にとっては何によっても耐え難い恐怖です。しかし知能を持たないか、知能を持つほど脳神経が発達していない動植物は、単純に本能で以って自らの死を回避する術に従っているだけで、おそらく活動主体としては恐怖を生得的に理解しているかもしれませんが、知能を形成し得るほどまとまった神経組織を持つ動物ならば、認識としての恐怖を覚えることでしょう。 そして人間はその恐怖を、記憶の蓄積と知能の働きに基づく認識レベルにおいて少しでも解消しようとするので、なぜ死を恐怖と感じるのか、その理由を内的(正確には内感)にはほぼ不可能であるその一方、外的(正確には自らの内部に存していても、元は外部から与えられた知識や思考判断に基づく概念)に求めようとします。そこでまず出てくる推論が「恐怖は生存欲に起因している」となります。生きている存在(活動主体)が生存欲を抱くのは当たり前のことで、これがなければ生存を維持するすべての身体的行動を取る必要を覚えることなく、生存欲を持つ場合よりも自らの消滅を招く機会を自ら多大に与える結果となってしまいます。 《ここで果たして生存欲そのものが自明なものか?という問いも少し時間をかければ分析、解説することはできますが、そうなると哲学倫理学などの深い部分にまで言及することになるので、この場ではこの論題は割愛いたします》 すると単純に考えれば、人間に内包される生存欲が裏返って恐怖の源泉に転嫁され、もちろん恐怖は負の感情ではあるが、恐怖そのものも自らの存在を維持存立させる一因となっている、人間はそういう事態を理解しているはずにもかかわらず、その苦しみを与える生存欲を敢えて抑制しようという意向が同じ彼から生まれるようになります。認識レベルに上らせずとも、生存主体(生命体)において死は不可避であり、いくら技術(殊に医療技術)が発達したとしても、死そのものから逃れることはできません。だから黎明期の知識人たちは、生存欲から死を恐れ心を乱されるのを防ぐため、死への恐怖を喚起する生存欲そのものを意識しないようにしよう、と考えたはずです。しかしこれを文字通り実行するとなれば正に人智を超えなければならず、その作業を行う当人に人間としての思考の限界があるとしたらおよそ不可能、というより、それを実現させるためには生存を欲する己の存在そのものを抹消する必要がある、つまり死に至ってしまうことになり、これは矛盾どころの問題でなく、ないものねだりに等しくなります(だから仏陀の死後に彼の高徳を喧伝する材料として、仏陀が前世で飢えた虎に我が身を投じた、という仏陀の教えから外れた逸話が後年編み出されたのです)。 生きている人間において苦を与える生存欲が抹消できないとなると、それでは生存欲に由来し生存欲を満たす重要なファクターとなる欲望、つまり人間の三大欲求、食欲、睡眠欲、性欲を、これもまた抹消すること自体は不可能なので、抑制、制限する形で生存欲の解消を図ろうとする訳です。 しかし、上記の欲望のうちまず食欲は、これに基づかないと生存欲どころか生存まで抹消されてしまいます。実際に断食という行はよく世に流布している修行ですが、本当はそのほとんど、というよりすべての例において間隔を空けて栄養補給を行うなどの緩和策を執っておりますし、本当に完全な長期断食を敢行したら死を迎えてしまいます(この矛盾を逆手にとったこの行の完成態として、死してミイラに成る方の即身成仏が考え出されたのです)。 一方、睡眠欲も抑えられないことはないですが、通常の神経では二週間で心身に変調を来たして修行どころではなくなりますし、もし持ったとしても、見世物興行としての対外的なインチキでなければ、半年たたないうちに別の意味の死、睡眠不足による変調が高じての精神の死を迎えるでしょう。 残るもう一つの欲望。 性欲。 これは他の基本欲求と違い、人によっては外面上、完全に抑えることができます。 だから、もちろん他の様々な欲求を抑えることも宗教の責務として提示されていますが、何よりも性欲の克服が、実は宗教という枠組みを持つ人間の最大の課題となっている訳です。 ここで当然、性欲の克服は重要なことではあるにしても、宗教の主眼だと決め付けるのは主観的過ぎる暴論ではないか、という反論が宗教家や熱心な宗教者、普段は宗教を意識していなくとも倫理の源泉として宗教を重く見ている方々から挙がってくることでしょう。しかし宗教の役割を広く鑑みると、やはり生存欲の克服そのものを直接問題とする宗教意識、というものを想定するのは難しいのではないでしょうか。もちろんそんな宗教意識が全くの皆無ではないようで、欲望抑制とは関係のない宗教的目的として来世利益、つまり解脱して人間としての苦しみを味わわなくていいようになりたいとか、審判を通じて天国へ昇り神の御許に近づきたい、という救済の希求意識が存在します。しかしながら、そんなことはおよそ実現不可能、という言葉をそれぞれ創始者本人たちが直々に漏らしておりますし、後年になって教義が体系化された時も、その当初は並ならぬ行と徳を積んだ出家(キリスト教では修道、イスラム教は未確認)ですらも達成は困難、とされています。この来世利益という概念は現実の苦痛を意識上で軽減させるための、宗教における一種の安全装置、安全弁であって、即時課され達成すべき責務ではありません。では、どうすればそれらの意識が得られるかといえば、やはり行と修養を積むより他にはなく、その手段とはやはり欲望の制限になってしまうのです。ですから葬式仏教において墓前で合掌する、という一般的には敬虔とされる行為も、宗教本来の観点からすれば、自らの欲望のためにのみ動く時間を宗教儀礼の名の元に奪い、欲望から解き放たれた存在(つまり故人)を意識させることで欲望の抑制を期させる、という解釈が可能なのです。 そして一般の日本人にとって最も宗教意識を喚起させる葬式という儀礼も、仏陀にかかれば「そんなことは(仏道の遵守追求に関わらない)在家の人たちに任せてお前たち(仏陀の弟子たち、転じて僧侶)は(自分の)修行に専念しろ」と一蹴されてしまいます(補足しておきますと、いま現在日本に流布している仏教は、仏教発足当時に仏陀が説かれた教えとかなりずれている、というより、むしろ仏陀の本意とは180度異なる儀礼宗教に変質している、と申すことができます)。 想定される反駁の論駁で本論から外れて枚数を費やしてしまいましたが(もちろん重要な論題ではあります)、さしあたって本論の主題、宗教の手段として最も重要な行為(認識)が性欲の抑制である、というところまでは論証ができました。もちろん短い準備期間しか設けられない中での個人的な私論の展開ですので、精査すれば個別の方法論的な穴は出てくるものと思います。しかしこの論旨そのものの正当性を強調するために申しますと、倫理が社会的な要請にのみ基づかないことは前回で論証済みですし、その倫理が宗教の本義とは逆の、欲望の拡張という社会構造が内包する目的に寄与しないことも想像に難くないでしょう。 ですから表現規制という欲望の制限が、社会意識の集約された模範例として考えられる”いわゆる倫理”のみより生じたものでないこと、つまり紛れもない宗教心の裏打ちが前提となって産み出された恣意的教義(ドグマ)であることは、この文章をここまで読まれた方ならおわかりいただけるものと存じます。 今回は、表現規制の源泉である宗教の方法的目標が欲望の抑制、殊に性欲の抑制であることを論証するため、用意していた他の論題を一行も費やさないまま規定枚数を迎えてしまいました。 次回は本当に「東京都青少年健全育成条例改正案」に対する反駁のラスト、こういった宗教心が社会的な正義として援用されている現状の問題点を指摘する、という論旨を中心に置いて、全体のまとめを行う予定です。言っておきますが、あくまで予定ですから。ことによるとまた論述が長くなるかもしれませんので、その際はご了承の上お付き合いください。請うご期待。 Tags:#東京都健全育成条例改正案
![]() 上に貼り付けたポスターと動画は、来る1月8日に佐賀市内にて行われる自主製作映画「リア充商店街」上映会の告知です。 この映画を製作したのは、佐賀大学が主体となって最近活動を始めたオープン・シネマ・コンソーシアムという団体で、私が先日よりお世話になっている佐賀大学准教授、中村隆敏先生などの方々が主体となっています。 というか、このプロジェクトが立ち上がったのもつい最近のことらしく、また私もそれより遅い時期に動き始めたので、何がどのように誰により行われているか、私自身は極めて断片的な情報しかつかんでいません。 しかし取り合えず、佐賀の地において映像製作の動きが活発になりかけていることは、間違いないようです。 そこで、このブログをご覧のお近くの方、また佐賀市外にお住まいでも電車の利用が可能な方は、JR佐賀駅からほど遠くない場所に会場がございますし、お車の方は大きめの駐車場が設けてありますので、よろしければ足をお運びください。会場の住所がポスター上では明記されていないようですので、 関連のサイトのリンクと併せて下に記しておきます。 アバンセホール 佐賀県佐賀市天神3丁目2−11 リア充商店街Webサイト http://net.pd.saga-u.ac.jp/digi-pre/occ/ 予告チラシ http://www.saga-cu.jp/img/occ_poster.pdf 詳しい地図やプログラムなど概要がポスター裏面にありましたので、併せて貼っておきます。 では、皆さんのお越しを心よりお待ちしております(あれ?何か既視感が、ああ八戸窯ブログでの告知と同じ締めか)。 もちろん私も、終日会場に詰めております。 ![]() あわせてお詫びですが、今週の「宮澤英夫マガジン」の更新は、上記のイベントに関わる関係で、お休みをいただきます。
2011迎春 でも昨年の総括です
昨年の締め「宮澤英夫活用研究」は変な画像で誤魔化してしまいましたが、平成二十三年の更新初めはきちんとした文章でまとめたいと思います。 さて、昨年からこちらから始めるに当たって何を書こうか考え、そういえば「宮澤英夫のゲーム!特撮!アニメ!マンガ!」を立ち上げたのは一昨年も押し迫った時でした。でも実質上昨年より始動した形なので、昨年のこの記事総体を振り返ると、執筆を進めるうち自分でもこんなこと考えていたなんて思いもよらなかった、とびっくりした自己発見がいくつかありましたので、それを自分で見返して特筆すべきと思ったトピックと共に、箇条書きと解説を合わせる形で著わします。 1、連載小説「新デレラ!」が昨年頭まで続いていたこと 今度の機会で記事全体を振り返るまで、「新デレラ!」は一昨年の年の瀬に完結していたものと思っていましたが、昨年に入ってもしばらく続いてました。ここは本来、短編小説と「宮ゲ!」のようなコラムや論評を交互に更新していく構成で進める予定でしたが、やはり投稿用の長編に入ると短編まで手と頭が回らず、小説とは別回路で書ける「宮ゲ!」が中心となってしまいました。 2、私の「萌え」体験の起源が判明したこと もう大体の方、というか読者全員お忘れでしょうが、私の「萌え」の源泉はなんと、「世界名作劇場」の第二作「アンデルセン物語」の一編に出てきた、変装でなしに(恐らく魔法で)女に変身した青年でした。以前より何となく気になってはいたのですが、それが近年より囁かれるようになった言葉、「萌え」によって説明が付くなどとは思ってもいませんでした。そのうえ幼児期に倒錯した性意識を私が覚えていたというのも、なかなかのポイントです。そしてこれは最近の記事に書いていますが、私の「キャラ萌え」の起源は「新造人間キャシャーン」の(今にすれば)地味なヒロイン、「上月ルナ」だと、執筆中に判明しました。この娘の一般萌えられ度は結構高いのですが、私の場合はどうも他の方とは異なっているようです。 3、アニメ鑑賞時にドラマを初めて意識したのは「アローエンブレム グランプリの鷹」だったこと 私がアニメを観ていてドラマ性を気にするようになった初めての作品は、これまで富野喜幸監督の「無敵超人ザンボット3」だと自認していましたが、ここで振り返っているうち、ちょうど「ザンボット」に触れる前に「グランプリの鷹」にはまっていて、いま考えると恐らくその時に私の鑑賞眼を形作る種がまかれたようです。そして水を与えたのは「ザンボット」、肥料となったのは「ヤマト」、発芽したのち天上から日の光を与えたのはタツノコプロ諸作品で、それらを下地として更なる成長をうながしたのが「機動戦士ガンダム」なのでしょう(成長促進剤となった他の作品がまだあるかもしれません)。 4、「宇宙戦艦ヤマト(1st)」について長々と言及したこと やはり第一次アニメブームの火付け役であり、私にアニメで盛り上がる術を知らしめた「ヤマト」に関しては、事前に長くなるとは思っていましたが、予想をはるかに超える枚数を費やしてしまいました。 まず第一に、「宇宙戦艦ヤマト」の音楽はプログレ・バンド「ピンク・フロイド」の代表作、「原子心母」に材を取っているのではないか、とネット上で初めて言及したことです。この部分を取り上げた記事は少なくともネット上には無く、ひょっとして封印関係なのかな?と内心ビクビク、内心ソワソワでした。 第二に、古代進が大人として、戦士として成長するに当たり必要な内的存在、目の前にそびえる厚い壁であり目標である父親の役割を果たしていた(予定)のは、沖田艦長ではなくて実は兄の古代守ではないか、と思ったこと。詳しくは本論をご参照ください。 そして何よりも大きかった自己発見は、「ヤマト」製作の際、どうも構成の山本瑛一氏の(実質)監督作、「千夜一夜物語」「クレオパトラ」「哀しみのベラドンナ」というアダルトアニメ映画の方法論が、一般には見え辛い形で「ヤマト」に影響を与えているのではないか、そして乱暴な話、その事態を遠因として「萌え」の概念が形成されたのではないか、と執筆していてそんな考えに至ったのです。 5、「アストロニューファイブ」の情報を求めている方がいらしたこと 「1stヤマト」をひとまず終え、次に取り上げた男児向けフィギュアの枠で、自身の記憶は明瞭なのですが資料が皆無な「アストロニューファイブ」について持てるだけの知識を著わしたところ、なんとこのワードで検索された方が複数人いらっしゃいました。マイナーネタ好きはごくわずかだが一定量、とは言われますが、まさかこのネタで検索ワード月間一位とは正直驚きでした。 6、「ロボダッチ」のデザイナー、小澤さとる先生のマンガ版がお粗末だった訳 「ロボダッチ」のキャラデザインはご存知の通り小澤さとる先生ですが、当時流布していた小澤先生直筆のマンガ版がお粗末どころかマンガの体すらなしておらず、なぜなのかが長らく疑問でした。そして後年、小澤先生の真価に接し、ひょっとするとロボダッチの位置づけについて今井科学側と小澤先生との間に、何らかの齟齬が生じてのこの事態なのではないか、との推測に至ったのです。これも詳しくは本論をご参照ください。 7、いわゆる「アニメ」の初端は「ヤマト」ではなく「科学忍者隊ガッチャマン」ではないかと思ったこと これについては結構いろんな方が言及されているようですが、放映時期では「ガッチャマン」が先行しており、それを鑑みれば「ガッチャマン」のリアルなメカ同士の戦闘の描写、展開が「ヤマト」の宙間会戦に影響を与えたのではないか、という推測が立てられるのです。それに加えて、 8、「ガッチャマン」のベースには「アニメンタリー決断」が存しているのではないか タツノコプロは「ガッチャマン」製作の前に「アニメンタリー決断」という非子供向け戦記アニメ番組を手掛けているのですが、この作品が下地となっているから「ガッチャマン」がそれまでのcartoonを脱し、確かな設定、描写が施された「アニメ」になり得たのではないか、そして傍論として「ヤマト」にも同時に、有形はもちろん無形にも多大な影響を与えた公算が大きい、と考えたのです。この詳細についても本論をご参照ください。 そして最近の話題ですが、 9、「東京都青少年健全育成条例改正案」可決に憤慨する これはただいま懸案の記事ですので、また次回からもこの問題を取り上げます。 私自身の今年の詳しい抱負は、いずれ「宮澤英夫活用」にて述べる予定ですがここで一言申してしまうと、今年やりたいことなんてたくさんあり過ぎて抱負の網羅なんかできる訳ありません。また実現不可能なことも臆面なく予定に入れてしまう無神経さも持っていませんので、向こうでは軽く著わす程度です。 で、ここでの抱負を挙げるとしても、基本的には私が観ていたアニメや特撮、読んでいたマンガや遊んだゲームを時系列に沿って順次取り上げていくだけですし、本当に面白い内容は書いていくうちに思い付くものなので、事前にどんなトピックを用意している、なんてことも挙げられはしません。 ただ、最近思いついて後々このラインで論述しよう、などと考えているトピックは、「『∀ガンダム』は『機動戦士ガンダム』の続編であるばかりでなく、実はむしろ『伝説巨神イデオン』の直接の続編ではないか」というものです。そして短く申せば、いま私の内でもっとも一押しな富野アニメは、「ガンダム」「イデオン」「ゲイナー」なんかをぶっ飛ばして断然「∀ガンダム」と断言できます。素敵過ぎます。アニメ作品総体ででも、かなり評価の高い方に入ってきました。 とはいえ、「∀ガンダム」を取り上げるまで、今のペースでは何年かかることでしょうか。 まあ「宮ゲ!」に関しては、足元を固めながら地道に進める所存ですので、いずれたどり着くでしょう。 それでは皆さん、もう元日も過ぎてしまいましたが、今年も「宮澤英夫マガジン」、併せて「宮澤英夫活用研究」「8mm技術保存研究所」のご愛顧をお願いいたしたく存じます。 宮澤英夫
前回は、「性表現規制の根底には、性的要素を忌避する宗教的意識が存する」との言葉を末尾に置いて、次回でこれについて論証を行う旨を述べました。しかし、同じ調子で論述を続けるとなると、論議を縦横に展開するこの手の論文を読み慣れている方を除けば、たいていの読者は最初の数行で敬遠してしまう恐れがありますので、今回は宗教・倫理面での精緻な検証をなるべく避け、「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」をテキストとしてその論理構造や、明らかな倫理的誤謬(恐らく恣意的な運用であろうが)を指摘し、私の目から見た問題点を洗い出してみることにします。
今回「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」を読む際に、書面(もちろんpdf書類ですが)の一枚目から順を追っていたのでなく、あたかも紙の本を適当にめくって読み飛ばすかのように飛び飛びでトピックを拾っていたので、質問回答集の順どおりに論じてはいませんが、一応出典元の質問文を相当する論述の前に置いて補足します。 まず、「18 児童ポルノ的な漫画やアニメが児童に対する性犯罪を促進する」という証明はされていないのに、規制するのはおかしいのではないですか?」という質問の後に、東京都はこう答えています。 「子供が読むことで、子供自身の性的な考え方が歪むことを防止するため、子供への販売を制限するものです」 果たして、過激な児童ポルノ出版物を読んで、子供の考えが性的に特化した形でのみ歪んだものになるのでしょうか?まずその懸念が実体化した際に考えられる事態は、「子供がエロマンガに書いてあるような残酷な仕打ちを実行する可能性がある」ということです。 しかしもしそのマンガの内容が、大人が見てもおぞまし過ぎて不快感以上の感情を抱かざるを得ないものであれば、それは基本的に子供も同じように受け取ります。性的犯罪は人間の尊厳を著しく貶める行為ですから、それが自身の身に至った場合に自分がいかなる損失をこうむるか、言語による他人とのコミュニケーションが可能な段階を踏んでいれば、第一次性徴期を過ぎた子供ならそれぐらいの認識力は保持しているはずです。 このように子供の心を歪ませる、という考え方には、大人の恣意的な願望、「(特に自分の)子供に性的なことなど考えさせたくない、できれば考えないで欲しい」という我が身を省みぬ身勝手な願望が裏打ちされている場合が非常に多いのです。実はもっと倫理的に精査すると、このような大人側の考えそのものが一番悪影響を与かねないという議論に発展するのですが、今回は紙面の関係上割愛します。 で、次の矛盾点ですが、「15 現実の子供の性交経験率は高くなっているのに、子供の性行為を描いた漫画やアニメを子供から遠ざけても意味がないのではないですか?」という問いに対する東京都の回答がこれです。 規制の対象は、いわゆる「エロ漫画」のうち、子供への強姦や近親相姦などの悪質な性行為を、あたかも楽しいこと、普通のこととして描写しているようなものなど、子供に対する悪質な性行為のシーンを「売り」にしたものに限られます。 通常の子供が経験する性交と、このような悪質な性行為は、明らかに別物であり、性的判断能力が未熟である子供がこのような漫画などを読むことで、悪質な性行為への「誘い」に対する子供自身の抵抗感が薄れるおそれがあり、また、そのような性交を普通のこととして、真似て実践してしまうおそれもあります。 このような漫画などを子供に見せたくないというのは、親として、ごく自然の感情であり、このような漫画などを子供に見せないのは、未熟な子供を守る大人としての責務であると考えています 子供は大人の真似をすることで自ら学ぶ姿勢を形成する、つまり学習の契機を得ますが、大人が自覚無自覚いずれにせよ悪いことをすると、それを形の上だけ学んで無自覚に悪いことをするかというと、大方そんなことはないようです。確かに、その大人の悪行を悪と取らず、自分もそんなことしていいんだ、と思い込んで無自覚に犯罪に至る、というケースは皆無ではないのですが、問題なのはその子供がまったくの無批判に大人の悪行を真似するのでなく、たいていは悪行であることを重々自覚し、大人と同じ意識で大人のするごとく意識的に他人の権利や量的資産を収奪している、そういう例がほとんどだということです。しかも先に悪をなす大人が、犯罪意識そのものを自らの意識の根底に置く常習的なレアケースを別として、自覚的に悪行をなしたとしても、それを行った自分自身を無批判に受け入れることは極めて稀です。ここが法運用の微妙なところで、殊に日本ではたとえ社会倫理から外れた行為でも、法的にクリアー、あるいはペナルティーが軽微過ぎて、警察など治安側から見逃されてしまうレベルの犯罪であればいともあっさりハードルを越えてしまい、その後も罪の意識を持たないものです。しかしいったんある行為をなすことが違法だと意識してしまえば、大した刑罰の対象ともならないのにその行為をなす前や実行中、そして完遂した後も、異様に他人の目を恐れてしまうようになります。これは大人の側の意識であり心理なのですが、もし大人の悪行を真似てしまうような子供なら、たいがいこのような大人の息遣いすらも真似てしまう、いやもはやここに至れば真似の段階では済まない、「学習」をしてしまっているのです。「学習」とは「理」の作業であり、「情」の作業ではありません。もし「情」が子供の意識の先に立って大人の触法行為を真似るとすれば、それはむしろ、逆に大人に身も心も従属し疑うことを知らない「良い子」という思考回路からの所産である可能性が高い、と私は思います。 と、本来ならここから「性犯罪」と「情」の関係を展開したいところですが、かなり突っ込んだ議論になる上に論の流れで具体例を考慮しなければならなくなり、こういう場で公言するのもはばかられるたぐいの記述が頻出してきますので、ここでは割愛します。少しだけ触れるとすれば、性犯罪の形態のほとんどは、行きずり、成り行きといった”通り魔”的なものではなく、近親者や近い関係性にある者を対象とした例が圧倒的だと言われています。性犯罪に関するデータとしてそれは薄い、とお考えの方へ補足するとすれば、現代日本の極罪である殺人事件は、顔見知りの間柄以上の関係性を持つ人間間で生じる例が圧倒的に多い、と公式なデータではっきり示されています。殺人も性犯罪も他人の精神身体にただならぬ損失を与え、その加害者の意識が究極的に問われるたぐいの犯罪ですので、それなりのメンタルなバックボーンも必要になってきます。であれば、エロマンガを見たから興奮して成り行き的に犯行に及んだ、などという短絡的な理由が、その加害者の真意であり本質的な動機だと断定できるでしょうか。以前に一例、そういった証言をした加害者がニュースで取り上げられた記憶がありますが、その際は被害者との関係性や犯行の計画性を糊塗するための言い訳だと裁判官が喝破した、との言及があったようです。その記事の信憑性はともかくとして一般的なレベルで言えることは、人はやはり人を見て人より学ぶのであって、創作物における常軌を逸した表現を目にしたのみで、自覚なしで自ら再現に及ぶなどという事態は一般の世人ではまず不可能であって、それを実行に移し得た人間はむしろ、それが契機の一つであったにせよ、それとは別件でもともと当人の保持する、内的に属した深い動機に突き動かされたのではないか、少なくとも私の内面、そして接し得る限りの男女問わず他人(世に言われる悪人を含む)の意見を集約し考慮すれば、そう判断せざるを得ないのです。更に言えば、そういった創作物が実際に性犯罪の直接の契機となったとすれば、その犯罪者は普通の人間をはるかに超えた想像力と認識力を持つ超人か、人間の知能をはなから持たず本能のみによって動く生物の領域に属するか、そのどちらかであると私は思います。 で、ここまでが大人の悪行を子供が真似してしまうのではないか、という大人の懸念の押し付けに対する反駁ですが、その次に至るとかなり厄介な議論になるようです。 「通常の子供が経験する性交と、このような悪質な性行為は、明らかに別物であ」ると文中にはありますが、「通常の子供が経験する性交」と、「このような(アニメやマンガに出てくる《筆者補足》)悪質な性行為」は、果たして表現どおり別物なのでしょうか。 ここからは具体的な事例を挙げると、性犯罪を裁く法廷で飛び交う発言に近い記述になりますので、なるべく婉曲かつ簡単に述べていくことにします。 少なくとも私の読歴を省みれば、「これはたとえゾーニングが施してあるとはいえ、公的な出版物として世に出してよいものだろうか」という書籍(多くはマンガ)に接したことは少なくないどころではないし、現に私の持つ蔵書の中に、そのような表現を主眼として求めたものではないにしても、“いわゆる”悪質な性的表現の混入した表現物が紛れている可能性はほぼ100%です。その中には子供の頃に求めた雑誌に載っていた例や、長じて過剰表現を所望する目的でなしに買った大人向け出版物(ポルノ、マンガに限らずとも)の一企画がそういうものだった、などというのもあるでしょう。そしてそれらの表現物を、充分なリテラシーを持つ私自身が目にしても、著しい嫌悪感を禁じ得ない場合がほとんどです。表現界総体の問題としてこのような悪質な表現物をいかにするか、という議論はまた後に別枠で行いますが、その一端だけ申せば、私自身はこのような表現を極めて不快だとは思いつつも、社会的に全く不必要だとは思っていません。 話を一般的なレベルに戻すと、恐らく今回の条例案に賛成をしたほとんどの議員の方々は、私ですら不快に思うような表現物を目の当たりにはしていない、というより、もとよりこの手の性的表現を資料的に検証する暇を恣意的に惜しみ、並み居る表現者ならば充分許容範囲にあるレベルの表現すら大犯罪のごとく考えている節があるようで、それが「明らかに別物」などという文言に象徴されていると考えます。 もし、それが実際に当該の出版物を賛成者自身が検証しての意見であるとします。私が考えるに「通常の性交」とは見なせないたぐいのマンガ的性表現は、およそ実現不可能です。ではそのような表現とは具体的にどういうものであるか、という説明をここで行おうと試みましたが、この文章を読んでもらいたいと思っている一部の方々に対し、過分に不快な印象を抱かせ、かえって攻撃対象に仕立てられてしまう恐れがありますので、ここでは止めます。もちろんそれらの表現(というか不快と見なされた行為の描写)の名目的な分類は、質問回答集の文面にて数ヶ所挙げられています。 しかし一つ確実に言えることは、不快な表現としてそれらの分類に当てはまるとされた性行為は、おそらくたいがいの人間が実行に及んでいる、あるいは妄想の段階に留まってはいるが、知識として頭の中に必ず存在しており、もっと言えば意識上にのぼらないとしても、自分も出来ればそんなことをしてみたい、そんな欲求を誰もが抱いているはずです。つまり、普遍的とは言わないまでも、常軌を逸脱した性行為を欲する志向性は結構誰もが内包しており、そういった己の獣性を認めたくないばかり、それらの内的要請を否応なしに喚起させる性表現に対し、自分が受け入れられる限りの一面的な倫理意識でもって排除しようとする、それが表現規制を進める側の持つ内的動機ではないか、彼らの主張に存する矛盾を見出すたびに、私にはそう思えてなりません。 あと小さな話ですが、「このような漫画などを子供に見せたくないというのは、親として、ごく自然の感情であり、このような漫画などを子供に見せないのは、未熟な子供を守る大人としての責務であると考えています」という主張は一見、反論の透き間もない正論過ぎる正論を並べているように見えます。しかし、劣悪な内容の表現物を子供に見せたくない、と子を持つ親は必ず考えてしまう、と思っての記述であるとしたら、百歩譲ってこの種の主張を前面に出すのもよしとせざるを得ませんが、「親として、ごく自然の感情であり」とか「未熟な子供を守る大人としての責務であると考えています」といった記述からうかがえるのは、親という役割のある種の機能を一般的に説明しているように見えて、実際は「こうあるべき」と主張して読む側に押し付けている、もっと言えばこういう形で強迫観念を煽ることにより一種の洗脳を行おうとしている、そう見えてなりません。となればそういった洗脳によって、子供の考え方までも自分たちの作った枠内に押し込めようとする根拠が彼らの内に必ず存在しているはずですが、なぜかその点に関する言及や説明は同文書中のどこにも見当たらないのです。もしそれが自らの狭隘な認識に基づくイメージに帰しているのならば、その反駁は極めて容易なのですが、彼らは他者が反駁するに難い、自分たちを出所とするものとは別の規範を根拠にしているように、私には思われます。 その一つとして、彼らの脳裏に「正しいSEX」というイデアが存在していることは、先ほどの論述で示したように想像に難くないです。しかし、いかなる形のSEXが「正しい」と言えるでしょうか。一方的に他人を傷つける性的暴行は別として、基本的にSEXの正しい在り方など存在しません。 しかし、「正しいSEX」なるものを絶対の規範として提示している、思想体系はこの世に存在します。 先にも述べた、「宗教」です。 やはり前回と同じく、私が表現規制、ひいては思想統制の源泉を探ろうとすると、必ず宗教に行き着いてしまうようです。というよりもともと私が、宗教の恣意的援用で正当な個人の言動、もっと言えば頭の中をまるごと制限してしまいたがる傾向が世人にある、という自論を抱いているので、そういう帰着点に落ち着いてしまうのかもしれません。もちろんこのまま論を締めてしまえば、私自身がただ一方的に宗教に責を負わせたいという形になってフェアな議論とは申すことが出来なくなりますので、次回、2011年一発目の「宮ゲ!」は、その宗教そのものと表現規制の関わりについて、なるべく精緻に論述したいと思います。 本来の更新期日である金曜深夜はもちろん、明けて2011年の元旦となり、この日に本議題で更新しても面白くはありますが、元旦付近は恐らく私の抱える別枠の仕事で立て込んでいるはずですので、元日の更新は年頭の挨拶にとどめ、一応来来週、8日の未明にいま懸案の議題でもって更新する予定です。請うご期待。 Tags:#東京都健全育成条例改正案
今まで私、宮澤英夫は哲学生および仏教者という立場からフェアな立脚点を保つべく、政治的なトピックに対する発言を控えておりました。もちろん細かな私見を差し支えない、目立たない程度に漏らしたりはしていましたが、今回の法案採択はある意味、表現に携わりそれを享受する一般国民に対し多大な不利益を与えかねない政治的動向だと私は判断しましたので、禁を犯して、というほど大袈裟なものではないのですが、これまでやってこなかった類の論述を行う所存です。
もちろん私も表現者の端くれですから、一方的な表現規制法案の採択には感情的な反発を覚えることしきりですが、今回の記事ではあくまで哲学・倫理・宗教を人並み以上に学んだ立場から、倫理的な側面で改正案に対する論理的矛盾を指摘し、それに織り込む形で日本社会の判断基準となっている宗教意識をあらわにし、改正案の根本的誤謬を論ずるつもりです。 一つお断りを入れさせていただくと、この件に言及しようと決意したのが昨日の報道に触れた後でしたので、資料の精査が整っておらずただちに論を網羅することは出来ませんでしたが、さし当たって只今目にし得る限りの明らかな公的見解や発言のみを元手に論述を行うこととし、今回押さえられなかった問題点はまたのちのちこのブログ内で追記・補填することにします。 まず結論、というか今回採択された法案が不当であるとして対案を示すならば、「現行法を動かさず厳密に運用してレイティング、ゾーニングを徹底させればそれで済むこと」であります。 「東京都青少年の健全な育成に関する条例改正案 質問回答集」を一読してみると、その大半はいかなる表現が不健全で、いかなる表現は適応外、という線引きの基準に言及した記述が多く見られますが、「未成年に見せない」という動機そのものをとりあえず差し置いて精査すると、先に述べたように現行法を徹底運用することでその責務は充分に果たされるのではないか、と私は判断しました。 この質問回答書の論旨は三つ、先に挙げた「線引き」、それに伴う法律の運用形態、そして現行の表現者に対する言い訳とガス抜き、そういった条例適用の方法論提示に終始しています。そしてこのことは後述しますが、なぜ規制をしなければならないか、という一番本質的な議論、倫理的正当性の証明が極めて曖昧なのです。 そこでまず、表現規制における一般的な問題をさし当たって列記します。 元来、社会的正当性、必要性の明確な表現規制は、ある種の思想統制と極めてつながりやすい構造を内包しています。まず規制の不当な援用と、それによってもたらされる悪影響についてです。 これはこの種の表現規制に対しよく言われることですが、所詮は微罪である表現規制に触れたという理由である被疑者が検挙に至ったとして、実はその被疑者に対する別の容疑を固めるために家宅捜索の口実として用いられる、いわゆる別件逮捕に利用されてしまう、という懸念があります。別件逮捕は元々その被疑者が社会的に疑わしいと思われていて、なおかつ検挙の理由が微罪であれば誰もが法の恣意的運用と見て問題視はしません。しかし殊にその別件が表現規制であるとしたら、被疑者が本来の容疑以外でも悪を成している、つまり表現規制に触れるような人間だからもっと悪いことをしてしまうのだ、という拡大解釈を世人が執る恐れがあります。つまり、表現規制を犯す人間は二段構えで社会的に絶対悪にされてしまうのです。これは表現規制そのものの法的運用の面では問題ないのですが、誤解に基づく悪いイメージを利用してさらに罪悪視される結果となり、遠まわしに表現活動そのものを締め付ける一つの遠い根拠ともなりかねません。この懸念は直接に表現規制を強化するたぐいのものではありませんが、それを施行する側の意識が如実に見て取れると思います。 次に、表現規制などという欲望制限の倫理的問題を挙げます。 というより、本来世人より見て過剰で不快な表現は、あくまでその当人が倫理的な観点で以って肯定、否定すべきものであり、社会的に問題があるとしても頒布側の自主規制の徹底で留めておくべきなのです。なんとなれば、公的拘束力が可能になるよう法制化されてしまえば、それは単純に思想統制というより、宗教などで見られる教義、つまり「(理由を説明せずに)コレコレのあやまちを犯してはならない。さもなくばカミ(天上の方、転じて「お上」)より罰がもたらされるであろう」というものになってしまいます。 もともと法というのは宗教的な言葉で、自ら判断や熟慮をせず生活全般に旧来のアニミズム的な(奔放な、場当たり的な)宗教的判断をなす者に対して、人間らしい思惟を持って自ら生活を律するよう示した、前者とは別種の宗教的な規範を指す仏教用語(仏教の「法」はサンスクリット読みでは「ダルマ」)なのです(ユダヤ教の律法についてはこの場では置きます)。もちろん本式の仏教学からすればこの用法こそ拡大解釈に当たるのでしょうが、少なくともこの法(ダルマ)の運用においては、仏法に勝った者が仏法にうとい者に自らの法(ダルマ)を押し付け、劣ると思われる法を否定する、という構造になっています。そして大抵、正しいと当人が思った法を説く者にとって、旧い法は不必要でしかなく、聞くべき耳を持つことをほとんどしないのです。もちろんその説得者が、真に仏法の深遠までをも理解しているとしたら、相手の抱く旧い法に一定の理解を示しつつ、相手の言説に応えながら自らの法(ダルマ)の優位性をよどみなく説くことができるでしょうが、そんな弁舌と人間性を持ち合わせ得る人間はその総本山、仏陀ご自身のみと私は考えます。 しかし仏教の法(ダルマ)やユダヤ教の律法といった宗教的教義が、現在用いられている法(law)とまったくかけ離れている訳でもありません。これらの大きな宗教も元来は比較的狭い地域で信仰されていた原始宗教に端を発しており、それらは現実生活の厳しさを軽減する目的で、精神世界の恣意的構築によって安らぎや救いを集団の構成員に与える役割を負うばかりでなく、それらの形而上的教義の中に、原始状態では絶対的に不足し認知もなされていなかった、実生活に必要な諸知識を織り込んで説いている側面も多々あり、それらの教義の実務的運用形態が、現在の法律へと引き継がれているのです。そして現代のlaw(これもユダヤ教の律法の原語を語源としていますが)がまったく実務的にのみ構築されているかというとどうもそうでもなく、明らかな人的被害や物損、金銭的被害という現実の被害が伴わない類の規制、つまり表現規制や刑法百十条、軽犯罪法のごく一部など、実際に被害者の存在や被害実態がなくとも刑や訴追の課免を検討する類の条文が、それほど多くはありませんが存在します。それらは宗教的教義としての法(ダルマ、律法)の名残り、とまでは申しませんが同趣向の発想により、社会的に適切だとして設けられた節が強く見られます。もちろん被害実態がないからといってそれらの法律が不必要だとは、私は申しません。むしろローカルな生活圏に存する狭義の社会や、それらを包括してグローバルに連関する地球総体としての世界の、その変容・心物両面の拡大によって必要となる、非実害要素を問題とする法律は今後も増えていくと見られ、また私も場合によってはそうあるべきだとは思います。 しかしそれらの法律は突き詰めると、人の心の在り方を問う社会的規定、と言うことが出来ます。人の心の在り方を問題にするとなれば、それはもう倫理的考察の領域であり、その倫理を裏付けるのは、ほかならぬ宗教です。 社会そのものがその運用ルールとして倫理を規定する、と(邦外問わず)普通の人は考えているようですが、人の心の在り方を社会が決めることはありません。社会とは政治、経済の論理でまとまっているものであり、厳密には人の欲望が総合されての表出態であって、そうなれば人の欲望が他人の欲望を否定、せめて規定するとなれば、それはもうlawfulな事態ではありません。一個の人間が、ひいてはその同じ欲望(思想)を共有する集団が、他人の欲望の在り方を否定、規定することは近代国家(少なくとも民主主義国家)では否定されるべきことなのです。それが否定されない場合、そういった社会や国家はもはやフェアな視点を持ってはいません。一個の覇王や政権を寡占する実力者によって運営される、価値観の多様が認められない共同体、ということになってしまいます。この例示が極端だと思われる方に質問です。形態が民主主義でも、利害の一致を明示した正式な契約によらず、一個の人間の欲望が他者によって制限されることは許されるでしょうか。社会や国家がそれを認めるとすれば、その為政者も同様の思想を持ち、それを根拠に共同体運営を行っているということになります。もとより国民のアンフェアをフェアな為政者が見逃す、などという事態はありえません。同様に、その為政者も国民をアンフェアな方法論で捉え動かしている、という理屈になります。 この事例は非民主主義を執る共同体における話ですが、さてこれが民主主義を土台とする共同体で行われていたらどうでしょうか。他人の欲望を前提なしに規定する、ということは社会的にまず認められません。しかし、少なくとも日本の現行法においてそれが認められるとすれば、先に出した為政者と同じような影響力を持つ思想の源泉が必要になります。為政機関に関わりを持たず、また欲望そのものを根拠にする経済活動を専ら行うでもなく、社会的に是とされる思想の出処を持つ勢力、となれば、まず確実に挙げられるのが宗教です。宗教とはそのものずばり、人の心の在り方を規定しています。そしてそれが一般的に不合理と見られても、人の道(著者注・宗教的理念の言い換え)として正しい、と主張しその声が大きければ、意外と社会的にあっけなく認められるものです。細かい問題点を言えば人ならざる者のお告げの正当性とかお布施に税金がかからないとかいろいろ挙げられますが、その中でも一番顕著な例、そしてすべからく宗教の教義の根幹に存する概念が、「性的な要素に対する忌避」なのです。 この件も当初は一回で済ます予定でしたが、やはりヒートアップしてその途上で規定字数を超えてしまいました。来週はまた「破裏拳ポリマー・その2」を延期し、性表現の規制が多分に宗教的視点に立脚していること、そしてその問題点を洗い出し、そして枚数が許せば「東京都青少年健全育成条例」について具体的に触れ、その矛盾点を指摘するところまで行きたいと考えています。そしてこの件は来週の金曜深夜を待たず、執筆に宛てられる時間さえ設けられれば、論述がある程度まとまった時点で随時更新するかもしれません。
今週の「宮澤英夫マガジン」は、予定していた記事「破裏拳ポリマー・その2」の掲載を来週に持ち越し、「東京都青少年健全育成条例改正案」可決により私が抱いた危惧、問題点について、少しだけ詳しく述べてみたいと思います。私自身はいかなる形態にかかわらずポルノ・擬似ポルノ製作からは縁遠い者ですが、アニメ・マンガを嗜好する一日本人として、アニメ・マンガに近しい形態を執る表現活動を行う者の一人として、そしてなにより、表現活動を行うと同時に哲学を学んだ文学士、及びその連関で倫理・宗教を人並み以上に学び深く考察・実践する一学徒として、感情的になるのは否めませんがなるべくフェアな視点から、あまねく表現規制の危険性について意見の一端を著わす所存です。
いつもの連載を楽しみにされている読者諸兄には申し訳ないのですが、やはりアニメ・マンガに対する公的規制の正当化が決して看過し得ぬものであることは、容易にご理解いただけると思います。 宮澤英夫
四十七、タツノコプロ・その8 「破裏拳ポリマー」その1
1970年代に入って、制作会社の新興勢力タツノコプロが自らの手で新しい活劇をアニメの形で作ろうとするも、その範となった「アニメンタリー決断」の影響が強かった余波でアニメ自体の新しい方向性を示すにまで至った「科学忍者隊ガッチャマン」、「ガッチャマン」の方法論を受け継いだ上、ファンタジー性とSFを融合させて美しい悲劇を示した「新造人間キャシャーン」、この両者とも幼い私の心にはその本義がストレートには届かなかったが、「タイムボカン」シリーズを除けば初中期タツノコ作品のうち観ていた私が理屈抜きで一番心躍ったのは、今回取り上げる「破裏拳ポリマー」だ。 家賃の催促を迫る大家の娘南波テルに頭が上がらないほどうらぶれた三流探偵、車錠の事務所に、鎧武士という頼りない風来坊の青年が、助手として雇われるべく転がり込む。しかしちゃんとした仕事はなく、所長の無理な命令で目の前にそびえたつ国際秘密警察庁に忍び込み、上がりをかすめる片棒を担がされる。しかしそれは武士の表の顔、大事件の情報が入ると武士は単身ヘルメットに仕込まれた強化スーツをまとい、「破裏拳ポリマー」として急行し悪党どもに体技で立ち向かう。 と、設定を軽く示しただけで明朗な勧善懲悪活劇を期待させ、実際に本編に入れば転身アイテム・ポリメットの出自を巡るエピソードを除くと、前二作でうかがえた暗い影はきわめて薄く、ひたすら明るめで転身や討伐シーンも格好良い、コメディ&ディテクティブ・アクションとして気楽に観ることが出来た。武士の父は国際秘密警察の長官であり、将来を嘱望されて父からスパルタ教育を受けたが、それが心の傷となって離反する一因となった。しかし彼は鍛えられた体と頭をさらに磨いて、いずれは父を超える捜査官になることを目標としているのだ。 タツノコ作品では不思議なことに、父親とその子供が決定的な意見の相違などの確執により本心から全く反目している、という設定が用いられるのは、少なくとも初中期ではほとんどない。これらの作中で描かれる父親は、明らかに子供の目標となるべき立派な壁であり、対立の軸となるハードルも本質的な断絶を招くことはなく、子供も心底から父親を軽蔑することはない。明確な師匠という立場にはないにしても、父親の優位性が明らかに子供のモチベーションとなっているのだ。まさにジョン・フォードや黒澤映画のごとく、質実剛健で揺るがない父親(師匠)に反発しつつも、その度量と技量を認めざるを得ず、やがてまっとうに父親を範と成す子供の成長を描いている、そのように断言してよいだろう。もちろん現実と照らせば絵空事だが、殊に「ポリマー」のラストにおいてはエディプス・コンプレックスめいた確執が発展的に完全解消されており、普通なら観ていて胸の空く思いをしたはずだ。 しかし武士の父虎五郎は、当然だが徹頭徹尾武士たちの敵に回ることなく、むしろ互いを助けることで正の関係性を暗に築いており、この手の物語において普通は問題にするべきとされる深い断絶にまでは至っていない。よって父子の確執が物語の主軸とはなりえなかったようで、コメディ要素も相まって幼い私の興味は武士とその父の関係には向かなかった、というか向けようがなかった。実際、初見時に虎五郎が武士の父親であると認識した記憶が、私の内では皆無なのだ。 いきなり「ポリマー」においては裏側の入り口から入ってしまったが、表の入り口は何と言ってもポリマーの闘う勇姿だろう。武士がポリマーに転身し、ポリメットの補助のもと体技と知略を駆使して敵集団と戦う有り様は、範とした香港クンフー映画に迫る勢いで以って描かれていた。そしてポリマーたる武士に暗い出自が殊更にあるようでもなく、またキャシャーンのように自らの身を捨てる覚悟で戦いに挑むでもなく、彼のモチベーションは立場上0の位置にいる自分を他人(あえて言えば特に父親)に認めさせることであり、戦う姿もポリマースーツに依っているというよりただの戦闘服をまとっている感覚で、見た目には武士自身の身に付けた戦闘技術で真っ向から敵に肉弾戦を仕掛けていく。加えて、前作格の「新造人間キャシャーン」では愛犬の化身フレンダーが変形してキャシャーンの乗機となるが、「ポリマー」では強化スーツそのものが戦闘用ビーグルに変形するのだ。複雑なストーリーや謎の仕掛けられた設定など理解できるはずのない子供にとって、これほど魅力満載の活劇はないだろう。 しかし往時の私は、ポリマーのアクションが強調された部分に関して、さほど興味を覚えていなかったようだ。先も述べたように、ポリマースーツの補助を得て基本は武士自身が己の技と力で戦っている、という事態を私は割りとマイナスの方向に捉えていたようで、肉弾そのものを武器として敵に挑む姿に心躍る瞬間もたまにはあったが、ポリマースーツの形状を変えスーパーメカを駆使する場面となると、そのリアリティの欠如も相まって興ざめを覚えたものだ。フレンダーの変形態がその設定からキャシャーンとの浅くないつながりを意識させ、デザインもスマートで少なからぬ魅力を醸していたのに対し、人間形態のポリマーが戦闘ビーグルに変形する流れなど変身願望の強調にも至らぬ、ただ設定の上塗りにしか思われなかった。デザインもフレンダーと比べていま一つで、いかにもリテラシーの不足する子供が喜びそうな要素を詰め込んだ感があり、幼心にも正直観ていて鼻白んだものだ。 このポリマースーツの由来を察するに、「科学忍者隊ガッチャマン」におけるバードスーツは単なる保護目的の戦闘服で、卓越した戦闘能力はあくまで着ている本人に属し、キャシャーンはスーツ由来でなく生身の体を捨てて得た機械の体自身が戦闘能力を高めていた。では普通の人間がパワーを得るには、という課題のもと実際のポリマー(高分子化合物)という新素材の性質や語感を援用し、ポリマーでできたスーツ自体が力を持つという設定が形作られたのであろうが、少なくとも私はビジュアル、機能両面でポリマースーツのアドバンテージを意識することはなかった(シャープペンの替え芯「ハイポリマー」が「ぺんてる」から1960年に発売されていて、「ポリマー」の名称、設定の原点はおそらくこれだろうし、私も「ポリマー」と聞くと反射的にシャーペンの細い替え芯を連想してしまう)。鎧武士自身もともと格闘技の優れた使い手という設定であることを考慮すると、当該の枠から外れてしまう仮定だが、いっそのこと滝和也状態してしまえば今の私なら燃えて観ること間違いなしだろうし、当時でも私の興味を惹く対象となったかもしれない。 オープニングでポリマーの勇姿を連想させる勇壮な主題歌が流れると、正直今でも血の湧く感覚を禁じ得ないのだが、そののち本編で展開されるポリマーの格闘に一喜一憂する単純さを、その当時の私ももはや持ち合わせていなかったのだ。 そして当然、ポリマーや国際警察と敵対する悪の組織というものがいるわけなのだが、これがギャラクターやアンドロ軍団のような、定まった一つの大きな組織ではないのだ。この手のヒーローアニメにしては珍しく毎回全く異なる犯罪集団が登場し、また「仮面ライダーストロンガー」の最終回に出てきた大首領のように、これらの組織を陰で操る黒幕がいるわけでもない。しかも一組織あたり、ほぼ一回で消化。まさに悪の組織の大盤振る舞いだ。 なぜこのような構成になったのか詳しく言及した資料もなく、目にし得る限りの企画意図の断片から推測するより他に分析のしようがない。情けなくもwikiを当たると、鳥海尽三氏によれば「遠山の金さん」や「鞍馬天狗」を参考にしたとのことで、わかりやすい現行の時代劇を例にとるなら「水戸黄門」あたりの構造だ。これは恐らく、ギャグや軽妙なアクションを基調とした明るい娯楽作品を志向したことから、カタルシスを描く際には一回ですっぱり片付けた方がより効果的だ、という議論の方向になったためだろう。またギャラクターやアンドロ軍団のように一まとめの大きな組織を設けてしまうと、そこに必ず世界征服などの目的意識が裏打ちされることになってしまい、彼らと主人公たちとの間に「こだわり」とか「怨念」「因縁」といった関係が生じて話が複雑になり、見ている視聴者(子供)の側が肩の力を抜いて一回一回のカタルシスを味わうことが出来なくなる、そういう判断が働いたからだと思われる。 以前から述べているように、比較的幼い頃からストーリー重視でアニメを観る傾向にあった私にとって、そのような構造があまりに軽く思えたのか、少なくとも初見時に敵の存在を強く意識することはなかったようだ。だいぶ後年に至っての再見時、こんなふざけた色彩をまとった連中が敵として相対していたのか、と驚いたぐらいであるから、それだけ印象が薄かった、つまり関心がなかったのだ。そのサイケ調の敵がTV実写版「バットマン」のようにイカレた連中として描かれたとすれば彼らの存在にも興味が持てただろうが、彼らの執る作戦は案外真剣に計られ、大規模かつ大真面目に遂行されていたのだ。「バットマン」ではブルース・ウェインの方が大真面目だったからふざけた敵とのギャップが結構面白かったが、味方の側がだらしないのに敵が見た目と違い大真面目だったのは、どうも私にとり逆効果であったようだ。 こうして設定や展開を少し掘り下げてみたら、意外に幼い時分、そしていま現在でも私の興味を惹く要素が薄い作品、という風になってしまった。しかしそれでも、幼い頃の私はこの作品を毎回楽しみに観ていたし、今に至っても楽しい記憶が残っており、そして今でも再見の機を楽しみにしている。なぜだろう、というより今回はそこに至るまでに規定枚数を費やしてしまって、そのお楽しみの部分については論が及んでいない。 と書けば、同じく「ポリマー」が好きな方ならもうお解かりであろう。次回はそのあたりを詳しく述べることに。請うご期待。 第四十八回へ続く
四十六、タツノコプロその7 「新造人間キャシャーン」その2
これまで私が「宮澤英夫のゲーム!特撮!アニメ!マンガ!」において、意識的に「萌え」について論ずることはほとんどなかった。このブログ全体に限らず、マンガやアニメを扱うブログ総体においてこれほど「萌え」を取り上げない例は、極めて稀な事態であろう。しかし別に人の目をはばかって意識的に避けていた、とか、内心の奇矯な宗教的信念が妨げていた、とかいった特殊な理由があるわけではない。単に今取り掛かっている段階、1970年前半部のアニメシーンにおいて、幼い私がそれほど「萌え」について特段の意識を持つはずもないと思い込み、取り立てて論ずる必要性を感じていなかったからだ。 そしてこの原稿に取り掛かる際、初めはまったく言及していないと思っていたが、調べてみると一回だけ「アンデルセン物語」を取り上げた時、幼心に倒錯した「萌え」を覚えた旨を記載していたことがわかった。その時の論旨は極めて特異なものだったので、今の世に流布する一般的な「萌え」にまで敷衍せず論を終えてしまったようだが、振り返ると現代の「萌え」に通ずる意識的な描写がこの頃あたりのアニメから暗に明に示されるようになり、そろそろ一般的な「萌え」について私なりに深く論ずる必要が出てきたので、今回からは「萌え」をも特筆すべき一つの主題と意識して精緻に扱うことにする。なお、私は「萌え」概念の興隆を単なるオタクの心無き戯れの深化として軽視せず、現代の一般的な恋愛感、直言すれば性愛観と断絶することなくむしろダイナミックに連動していると考えており、そのため当ブログにおいて心理学的な用い方を心がけるにせよ、かなり性的に露骨な表現が頻発することとなるので、その類の話が苦手な方にとっては不快な読み物となり得ることをご了承いただきたい。 なお今回は、厳密には「萌え」そのものの分析を行うまでには到らず、その前段階とも言うべき「戦う美少女」、もっと突き詰めれば「主体的な女性」について述べることを論の柱とする旨を、あらかじめ明確にしておきたい。 さて、今回取り上げるトピックは、「新造人間キャシャーン」の続きであるから当然、上月ルナについてである。「キャシャーン」の中でのルナの位置付けは、まずキャシャーンの姿となる前段階の青年、東鉄也のGF(恋人と設定上は明言されていない)であり、鉄也がキャシャーンと化したのちは、生身の人間が唯一アンドロ軍団とサシで渡り合う契機を与えるMF銃を開発者である父より託された者として、キャシャーンと共にアンドロ軍団と戦うゲリラ兵、といったところだろうか。ゲリラ兵と言っても、劇中に出てくるいくつかの対アンドロ軍団武装組織員のように正式な訓練は受けておらず、また彼女が当初より戦闘に特化した特殊な能力を持っている訳でもない。ただ、アンドロ軍団に殺された父親から彼の作ったMF銃を受け取ったこと(厳密には取り返した)、そしてキャシャーンの前身、鉄也の恋人であったことをモチベーションに、あくまでキャシャーンとMF銃に依ってしか行動することのない、凡百のヒロインの単なる一例として捉えられる向きがある。 以前「ガッチャマン」を取り上げた際に言及を失念していたが、物の本、まあ言ってしまえば斎藤環著の「戦闘美少女の精神分析」という書物によれば、自らの身を戦場に置き戦うヒロインの、ある観点での嚆矢は科学忍者隊の紅一点、白鳥のジュンだという記載がある。果たしてそうだろうか、と思い、さし当りアニメ年表で確かめたところ、白鳥のジュン以前にアニメ(及びそれに近接するマンガ)のカテゴリーで見出される戦闘に特化した女性は二例、手塚先生原作「リボンの騎士」のサファイアと、石森章太郎著「サイボーグ009」のフランソワーズのみである(特撮を入れるとさらに話が複雑になるので割愛)。サファイアは確かにリボンの騎士として黒い戦闘服めいた礼服のバリエーションをまとい、夜な夜なジュラルミン大公たちの悪事に介入するが、彼女は戦闘美少女というより精神的なアンドロギュノス(両性具有、つまり男女性が合一しているため強い力を有する)の文脈で捉えた方が正しいようだし、フランソワーズもブラックゴーストの実力部隊と鉢合わせれば銃で応戦することもあるが、基本は特出した視覚と聴覚を能力として活用し、近接戦闘よりも情報収集、諜報を主とする戦闘支援に回ることが多かった。だから確かに斎藤先生のご指摘どおり、白鳥のジュンが戦闘美少女の初端と見るのは順当だろう。しかし私はその文脈を了解しても、なぜか白鳥のジュンに対して魅力を覚えることはなかった。それは以前に言及していても明言はしなかったのだが、彼女がギャラクターと戦うモチベーションと、彼女が科学忍者隊の一員である必然性が、私が作中において今ひとつ見出せなかったからだと思う。下って現在手に入る資料や解説に当たっても、私が納得できるような白鳥のジュンの戦う内的動機を明らかにしている記述はほぼ皆無だ。 翻って、上月ルナはどうか。彼女はMF銃を持っているとはいえ、白鳥のジュンほど身体を使って体技を繰り出すことはまずない。服装もしかり、白鳥のジュンは時代の要請かミニスカートを履きながらも大胆なハイキックをオープニングで披露していたりする(アンダースーツは着けているが)一方、ルナも体の線もあらわなピンクのワンピース姿だが(「キャシャーン」企画書に添えられたルナのラフスケッチを見ると、たおやかで線も細く、男が守るに値する高貴さを含んだ少女のように描かれていた。括弧内で余談に至り恐縮だが、それらのラフは極めて天野喜孝先生の画風に近似しており、いかに天野先生が吉田竜夫氏から得たものが大きいかが一目瞭然なのだ)、人間が太刀打ちできないロボット兵と格闘に及ぶことはまずなく、服が乱れて萌えポイントが加算される余地はない。ついでに言えば、白鳥のジュンは美少女として何とか認められ得る容姿の持ち主だと私の目には映っているが、上月ルナは歳が若い設定が影響しているのかどうか、有体に言って形象的に美少女のイデアから少し離れた場所にいるように思われてならない。そしていつもキャシャーンに付き添い、離れていればキャシャーン(東鉄也)の姿を追い求めるばかりという、幼い私は初見時においてキャシャーンの添え物的な、言ってしまえば地味な印象しか抱けなかったようだ。 そしていくばくか視聴を重ねるうち、だんだんルナの存在が私にはウザくなってきた。 それに似た感情とか、言葉の綾といったレベルで、私はこのように語っている訳ではない。 今にすれば、と前置きする必要もなく、しばしば画面を横切るルナの姿が、私にはウザかったのだ。 特に毎回本編の終了後に流れるEDで、ルナが一人疾走する止め絵が映るたび、何でこいつごときがこんな大写しになるんだよ、そうはっきり思っていたのだ。 そしてなぜ当時の私が、彼女に対しそこまで悪感情を抱いていたのか、本当につい先日までわかりかねていた。 しかし先日、この記事を書くための資料としてタツノコ作品史をまとめたMOOK本を確かめているうち、私がルナに対し肯定的な印象を持てなかった理由が判明したような、そんな気がした。 一言で言ってしまえば、これは一つの結論にもつながるのだが、上月ルナは個人で主体的に戦っていたからなのだ。 ルナがアンドロ軍団と戦う理由は、往時のアニメのようにどこかの特殊な国家(リアルな国家体制なのか、魔法の国のような架空の特質性を持つかにかかわらず)の姫君であるとか、主人公のチームメイトで運命を共にしていたり、主人公の想い人で足手まといになりつつも微力ながら主人公を助ける意向を持っている、というものでもない。まず彼女の父親が電子工学の権威で、鉄也の父親とは別枠でロボット兵に対抗し得る兵器、MF銃を開発しており、それが仇となって父親は殺され、彼女の手にMF銃が渡ってしまう。ここで彼女は父の仇アンドロ軍団に憎しみを抱く契機を持ち、かつ父の形見であるMF銃を所持するという重責を負ってしまったのだ。 このような構造は、もしこの作品という場において変身ヒーローものの枠組みが前提でないとしたら、主人公が戦う一個の理由、そして主人公が主人公たり得る理由として、充分な説得力を保持している。もしキャシャーンの存在がなくてルナが男の子であるとするならば、往時のアニメの文脈ではまず彼が主人公と措定されても遜色はなく、むしろ主人公の王道を確実に踏んでいると見ていいだろう。 しかしなぜ、往時の通例ならば主人公の添え物という役割しか与えられないはずのヒロインに、これほどヒーローに準じない形で主体的な戦う動機を持たせたのか?ということについて、今のところ確かめる術はない。先のMOOK本においても、wikiやその他ネットの情報においても、総監督である笹川ひろし氏の著作を当たっても、ルナについての詳しい記載は皆無に近い。その笹川監督の著作「ぶたもおだてりゃ木にのぼる」に到っては、製作統括者であるのにルナの設定に関する話は一切なく、ルナのCVが塚田恵美子さんである、という一介のデータとしてしか触れられていないのだ。 しかし殊、子供向け作品の名作にはこういうこと、つまり制作側が特異な設定や展開を自らの思想に基づいて最初から恣意的に作り上げることなどほとんどない、という事態が往々にしてあり得るものだ。件の「ウルトラマンタロウ」のプロデューサーで、他のウルトラシリーズや円谷特撮番組の制作や企画をも担当された熊谷健氏としばしば酒の席を共にした際、いろいろとオタク的な質問を吹っかける私に対し、私と同じような態度で取材を試みた同人の新聞風会誌を手にしながら、熊谷氏が「ボクたちは別にこんなややこしいこと、作ってる最中は考えたことないんだけどね」などという趣旨の弁明を繰り返されたのが、未だに深く強く印象に残っている。 ところがそのようなメタファーや寓意は、企画立案や作劇作業中において制作者や脚本家の頭の中に意識上か無意識下いずれかに必ず存在していて、製作現場でも個々の当事者に明確な認識はなくとも、現場やその時代の空気という形で確実に伝播し、彼らの脳裏に留まりその結果それぞれの仕事結果に反映されるものである。だから私は熊谷氏の言葉を文字通り捉えてそれにのみ準拠するような原理主義的判断を極力避けており、多様な視点からの読み込みと思考の派生逸脱を恐れない分析を行うようにしている。 そのようにして思い至った、ルナのヒロインとしては過剰ともいえるモチベーションの源泉は、現在のフェミニズム(男女参画社会という政治方針の起源)の更に原形、’70年代に世界レベルで勃興した男女同権運動、ウーマンリブに発すると私は推測する。 ここで恐らくほとんどの読者は、何だそんなことは誰でも考えつくじゃないか、と思われるだろうが、私の分析では上月ルナに備わる主体性は、ウーマンリブの考える主体性と必ずしも一致しない、いやむしろウーマンリブ活動家の抱く女性の主体性、つまり、ある種社会が暗に許容するという形で女性に課した甘えの構造に裏打ちされた、過渡的な誤解に基づく行動理念を、はるかに越えた次元で上月ルナは戦っている、と説明した方が私には納得がいく。 つまり先ほどは、ルナの持つ戦う内的動機がそれ自体一個の主人公として存立しうるほどの質を内包している、という旨の記述をしたが、更にアドバンスを加えた言葉を用いれば、ルナはたとえキャシャーン(東鉄也)と行動を共にしなくとも、アンドロ軍団と戦うだけのモチベーションを有しているのだ。 これは当該話を直に検証した訳ではないが、先のMOOK本中の本編第四話の解説に、苦闘の末MF銃を手にするに至ったルナが、共に戦うべく誘うキャシャーンを一旦は拒絶し、単身で戦いに赴く意志を見せる、という記載がある。これがこのまま進んでしまったら当時のアニメ文脈を逸脱してしまうので、当然ルナはキャシャーンと共に進む方向に落ち着くのだが、たとえドラマの高揚を図った演出だとしても、彼女のその拒否の姿勢に私はルナの主体性の強さを見出すのである。 このようなファクターは、戦闘アニメ美少女の嚆矢である白鳥のジュンからも見出せないばかりか、明らかにその当時までのアニメ、ひいては創作物総体における女性観を軽く超越している。 ではなぜその時点でこのような女性キャラクターが成立し得たのか、という点については、前述したように公的私的にもまだ判然とはしていない。まだウーマン・リブ運動が上月ルナの特異性の産出に直接の影響を与えた、とは明言できないのだ。 そしてキャシャーンに対する上月ルナの位置付けを、現在に流布するマンガ・アニメのキャラクターを用いて例えるとするなら、「鋼の錬金術師」におけるロイ・マスタングとリザ・ホークアイの関係に、あえて言えば一番近い、と私は考える(銃の使い手であることなどは偶然ながらまさに一致)。ホークアイも自らの裡に存する業に基づき彼と行動を共にしているが、動機そのものは必ずしも内的なものではなく、セントラル掌握というマスタングの意向に沿って形作られている向きが強い。もちろん自らの意志で判断し行動を執り、強靭な魂を有しているのは二人とも同じだが、ホークアイはどうしてもその行動理念をマスタングに負っているという点で、ルナに劣るとは言わないが、従来の女の枠組みからは逸脱していないように見えるのだ。 そしてここに至ると、主体的に戦うルナのキャラクターに幼い私が違和感を覚えた、という事態にも簡単に説明が付く。当時の私はまだ性的に未分化な幼子でしかなく、その上女性蔑視(もしくは女性自身の意志意向を無視する傾向)など当然な田舎の農家(の体裁を保持した家)の、それも長男坊という位置に担ぎ上げられていたため、自らの信念に基づいて行動するルナとかいった女は、女性として遵守すべき態度を執っていると認められなかった、つまり出しゃ張りな最低女に映ったのだ。 しかし今となっては、これまで私がブログなどで著わしてきた論述からも明らかなように、男に付き従い男の価値観に拠って男に依存することを当たり前として全く疑わない、つまり主体性のない女性など、私は御免被る。 そして私はいま、長門よりも天使ちゃんよりもきりりんよりもニンフよりも美琴よりも澪よりもイカよりも、誰よりも上月ルナに萌えているのだ(あ、でも沙織・バジーナも捨て難いか……)。 ちなみに、ちょうどこの1973年10月、サイボーグやロボットが主要な位置を占め、かつ女性が主体的な行動理念を持つことが物語の主題となっているアニメ、「ミラクル少女リミットちゃん」(‘73年10月1日)と「キューティーハニー」(‘73年10月13日) が「キャシャーン」(’73年10月2日)とほぼ同時に放映を開始している。製作始動の準備期間を考慮しても、これらの番組が互いに何らかの影響を与える余地はなく、同時多発的に発信されたものだと推測される。「キューティーハニー」は「ミラクル少女リミットちゃん」の枠で没になったのを拾われたという経緯があるが、「ハニー」原作(‘73年10月1日)の企図自体は永井先生が元々頭の隅にあったものと見てよいだろう。それに当初は少女マンガの枠内で’73年1月に始動した「エースをねらえ!」が次第に内的な深化を遂げ、岡ひろみの努力とそれにより築かれた実力の行使が軸となってきたのもちょうどこの時期だと推測され、しかも最初のアニメ版の放映開始(‘73年10月5日)も前三者とほぼ重なっている。 私はこの事態を見て、この頃の創作現場から発せられたある種の価値転換の初端として位置付け、仮に「1973年10月の変」と名付けたい。もちろんこれらの動向は偶発的なものではなく、それまでに脈々と蓄積された、価値固着に抗する人々の意志が時満ちて然るべく反映されたものだ、と私は考えている。そして将来的な話だか、この場で作品解題を行うばかりでなく、いずれ「萌え」を精緻に考察する基盤を築くため、’70年後半にエポックメーカー「うる星やつら」が出現するまでのヒロインの変遷を、極力クロニクルではなく彼女らの主体性と彼女らに属する概念を縦糸横糸にする形で、そう遠くないうちに論考する予定である。 今回は枚数を喰う事態になることは予想していたが、いざ書き上げてみると当ブログの最多枚数となってしまった。それだけ私が往時から徐々に自らの業を深く感じるようになった、というか今回はただの上月ルナ萌え表明なだけかもしれない。 さて次は、「新造人間キャシャーン」について他に何か、ただ今論ずべき点が見出されればその続きを著わし、その後に私にとってのお楽しみ、「破裏拳ポリマー」について語ろうと考えている。もし「キャシャーン」関連で枚数を裂く必要が薄ければ、久しぶりにオタクフルスペック全開と行きたいところだ。請うご期待。 第四十七回へ続く
四十五、タツノコプロ・その6 「新造人間キャシャーン」その1
たった一つの命を捨てて 生まれ変わった不死身の体 鉄の悪魔を叩いて砕く キャシャーンがやらねば誰がやる!! 通例なら最初から分析全開の私にしては珍しく、MOOK本風にタイトル前口上を冒頭に持ってきてしまったが、とりあえず幼い私は「新造人間キャシャーン」という番組が始まる一つの指標としてこの口上を認識し、そして視聴意欲を掻き立てられたものだ、つまり、この言葉を耳にするたび、幼い私の心は紅蓮のごとく燃えたぎった。 「新造人間キャシャーン」は、資料によると「科学忍者隊ガッチャマン」の放送枠の後番組ではないらしく、同じフジテレビでも別のタツノコ枠で放映されたということだが、内容としては実質的に「ガッチャマン」の発展形として製作されたものと見て間違いはないだろう。いろいろな関連書籍においても、「厳密には違うが、ガッチャマンの後番組である」あたりの記述がなされているようで、世人の認識を耳にしても、「ガッチャマン」と「キャシャーン」が先発後発という文脈で語られている例がほとんどだろう。 この作品に接してまず目に飛び込んでくる特異な点は、「悲愴」を「飛槍」に変換し武装と成しているような主人公、東鉄也、つまりキャシャーンの、まさに悲愴な境遇だ。タイトルにある新造人間とは、身体頭脳総体が人間によって作られた人造人間ではなく、また人間に改造手術を施したサイボーグでもない。まして鉄也の変身した姿がキャシャーンなのではなく(その形式は次回作「破裏拳ポリマー」で恣意的に用いられている)、一個の人間鉄也の意識と記憶をそっくりそのまま、戦闘に特化したアンドロイドに移植したもの、ということに設定ではなっている。そして元の身体に鉄也自身の意識(私の用法では主体)は残っていないらしく、またそれを元に戻す方法も、そればかりか鉄也の元の体がどこに保管してあるかもよくわかっていないらしい。そして少なくとも敵であるアンドロ軍団を解体、撃滅しない限り、元に戻ることができないのだ。そうなると、確かに人間側でもアンドロ軍団に拮抗している勢力もないではないが、およそ重武装のロボット兵に立ち向かうとなれば、超人を超えた力を持つキャシャーンがやらねば誰がやる、となるのである。もちろんアンドロ兵も刻々性能・武装がパワーアップすることは自明だし、ブライキングボス以下幹部となると単身ですべて抑えるのは事実上難しい、つまりアンドロ軍団の残滓すら残っていない状態にならない限り、キャシャーンは東鉄也に戻ることもできないし、そうなれる保障もないのだ。それなのに鉄也は自らの意志で、アンドロ軍団を殲滅するがため有機生体としての弱い自分の身体を捨て、自らの意志を物理面で最大に発揮するため過大なリスクを承知で機械の体に自らの主体を移したのだ。幼い私はこのシチュエーションの説明がなされるたびに、胸の潰れる思いが去来してならなかった。特にディビッド・クローネンバーグ監督の「ザ・フライ」のように(イメージの引用元は「ハエ男の恐怖」あたりだろうが)二つの透明カプセルが研究室の上下(かみしも)に並んでおり、それぞれに鉄也とアンドロイド体が収まり、鉄也が事切れる(ように見える)と同時にキャシャーンの瞳に光が宿る、もうそのビジュアルだけで正視に堪えないほどの苦痛すら覚えたものだ。そして当時の私はまだ精神や心、魂といったものは、それの宿る身体と不可分であると考えていたので、まさしくそれは「たった一つの命を捨てて」しまう行為だと映ったのだ。 今にして考えてみれば、このような形で知識や認識、感情や感覚に至るまで最上の代価デバイスに移植ができるというのなら、それはそれでまた別個の認識行動主体であり、キャシャーン本人は東鉄也という主体であるとの認識を持っているかも知れないが、オリジナルの生体自身がその認識の面で東鉄也本人であることは間違いない。それにキャシャーンに自分の意識を移植したとして、生体自身のオリジナルの意識が消滅しているはずはない。また移植の際に電気的操作によりオリジナルの脳が致命的な損傷を負うというのなら、もうそれはサイボーグ(戦士)になってしまうことと同一である。 しかし製作者の意図としては、そういう経緯を考慮に入れてのこの設定なのかも知れない。瀕死で助からない鉄也を生き返らせる、という付加価値が存するならば、イメージとしての悲壮感は半分まぬがれるであろうし、私が前述したように単なる脳内情報の移植のみとするなら、鉄也自身が苦渋の決断をする必要はない(「宇宙鉄人キョーダイン」の身代わりロボットのように)。とすると考えられるのは恐らく、キャシャーンが敵と立ち向かう際に説得力のあるモチベーションを持たせるためと、それと覇権やプライドだけを掛けた類の下らない戦いでないとしたら、主体的に敵と刃を交える際は自らの命を投げ打つほどの覚悟を持ってしかるべきである(前に述べた言葉を援用するなら、命を賭すほどの覚悟なしに戦うのは人の道にもとる)、という吉田竜夫氏かその影響化にある監督・演出の思想が反映されたのかも知れない。 そして今となっては、キャシャーンが超人的身体能力を以ってアンドロ軍団と戦う形象的な勇姿よりは、自らの有機生体を犠牲にしてまで自らの守るべきものを守ろうとする東鉄也の魂の在り方に、私は感動を覚えてしまうのだ。 そしてキャシャーンに敵として相対するのは、鉄也の父、東光太郎博士自身がそれを産み出す責を負う、人間をロボットの仇敵と見なし排除殲滅しようとするアンドロ軍団であるが、これが幼い私の目には訳がわからなかった。というか正確には何と形容してよいかわからないが、あえて言うなら強大な敵として説得力のあるビジュアルを持っているようには感じられなかったのだ。その理由だけならすぐに説明できる。つまりそれぞれ独自の個性を持った単体の敵が毎回のように立ち現れてキャシャーンと戦うのではなく、同じようなビジュアルを持つたくさんのロボットが蟻のようにキャシャーンにまとわり付いていたからである。無論キャシャーンがそれらのロボットを素手でひねり潰す姿は始めのうちは格好良く映ったが、それが毎回毎回続いたのでシチュエーション的な変化が感じられず、正直飽きを覚えたのだ。もちろん私がヒーロー物のテンプレートとして、毎回異なった敵の幹部が出現していることに疑問も覚えず慣れてしまっていたことにも一因がある。しかしながら、実際の戦争においてそんな戦闘形態は無駄遣い以外の何物でもない。史実でもナチスドイツが国力を質に求め、物量を稼ぐことをせずやたら新兵器の開発にばかり血道を上げ(旧日本軍も似たような傾向にあった)、結果的にドイツ軍は連合軍の多勢に太刀打ちし得なかった。確かに性能の面では高くなくともコストが抑えられて汎用性のある兵器を量産した方が、タクティクス、戦略としては正しい。しかし娯楽としての創作物に乗せるとなるとそれでは、ビジュアル面でどうしても地味になってしまう。そこで大人が接する(べきと考えられている)戦記ものでは新兵器の乱発や優秀な前線の兵士を立てる代わりに、用兵に長け人物的魅力を持つ指揮官が描かれることが多いが、私が考えるに「新造人間キャシャーン」ではそんな構造さえ排されているようなのだ。アンドロ軍団の統括者ブライキングボスはいわゆる父親的な壁として、多大な魅力を以ってキャシャーンの前に立ちはだかっているが、その下に位置する三人の司令官となると、私の目にはその器に至っていなかった。そこから敷衍してアンドロ軍団という組織自体も、不気味であるがキャシャーンと相対するにふさわしい説得力を以って受け取ることが出来なかったのだ。 これも推察するに、「科学忍者隊ガッチャマン」において採用されたタクティカルなリアリティを更に追及しようと、後続たる「キャシャーン」においてもアドバンスを加え援用を試みた結果、当時のアニメにおけるテンプレート、受け取りやすい形から逸脱してしまった、そんな印象を抱いたため観ていた私のテンションがいまひとつ上がらなかったのだろう。 そして本作の分析とは直接関係がないが、資料によれば富野喜幸(現・由悠季)監督が「キャシャーン」本編のほぼ四分の一の演出を担当されたということだ。確かに量産型のロボット兵器が一様に続々と投入されるという構造は、「機動戦士ガンダム」のジオン軍におけるザクやドム、ゲルググの登用と同様に映り、資料の記述を鑑みると富野監督が企画・構成の段階から関わっていたのではなさそうだが、このタクティカルなリアリティを自身の監督作においても援用したことは想像に難くない。そしてもちろん物量面のみならず、タクティクスを重視した構成や語り口は「ガンダム」以前にも頻用されていて、虫プロ解散後に職業的演出家としてアニメ制作会社を渡り歩いた監督が、タツノコ作品を手掛けた経験を有効に活用した結果、描くべきと志向する自らの主眼を築き得、更に言えば現在にも通ずるアニメという枠組み自体のアドバンスをも促したのだろう。このあたりについては当然、「機動戦士ガンダム」および富野監督の諸作品を取り上げる際、より深く考察することになる。 元来「キャシャーン」については一回の論述で収める目測だったが、やはりその途上で枚数を費やしてしまった。次回は予定として上月ルナの萌え燃え話を中心に、タツノコ作品に発するヒロイン像のアニメにおける変容について述べることにする。請うご期待。 第四十六回へ続く 付記:今週の更新は都合により一日遅れてしまいました。起稿する予定の昨日夜半までに今回の論旨は固めていたのですが、例によって処理すべき仕事が立て込み満足なこ筆時間を設けることが出来ず、こちらを後回しにせざるを得なかったことをご了承ください。 Tags:#新造人間キャシャーン
四十四、タツノコプロ その5 「科学忍者隊ガッチャマン」その5
前回の終わり頃に挙げた「アニメンタリー決断」を実はタツノコプロが製作していたこと、いや恐らく「アニメンタリー決断」という作品自体をご存知ない方がほとんどだと思うので、詳細についてはまた後々で取り上げる予定なので、ここでは軽く概要を紹介するにとどめる。 「アニメンタリー」とはアニメでドキュメンタリー(記録映画、もしくは実際の映像を再構成して一面の主張を表現したもの)を作るという企画で、文字通り絵で描く絵空事をドキュメンタリーとはどういうことか、なる話があったのだろう、二つの言葉を合成した造語で、ではこのドキュメンタリーで何を主張したかったのかと言えば、それは記録映画の枠を援用して出来るだけフェアな視点で捉えた、第二次大戦中の日本(軍)の姿、であった。原作が児島襄氏であるから、不偏不党、という訳にはいかないが、それとフェアな視点とはあくまで違うので、不当な評価ばかりを与えられてつい近年まで鑑賞が難しかったが、最近はDVDもあるしCSでもたまに目にし得るので、興味のある方は一見の価値が存することをこの筆者が保障する。 この「アニメンタリー決断」において、その中核の主張以外に目新しかったのは、単に日本とアメリカの国としての立場が対等に描かれるのは珍しくないとしても、その末端で戦う両軍の歩兵に至るまでどちらかをおとしめることなく、戦術戦略を考慮に入れた上で、互いに知略や鍛えた肉体を用いて敵と正面から向き合っている、という姿をこの作品で描いていたことであった。 もちろんこの企画は児島襄氏の原作が元手なので、吉田竜夫氏もしくはタツノコプロ自社企画ではないらしいのだが、もちろんそれまでのタツノコ作品と「決断」とは180度色合いが異なっている。はっきり言えば、完全に大人の都合、大人の理屈という一筋縄では行かない要素を、子供が観るべきと考えられていたアニメ、しかもゴールデン枠のアニメに持ち込んだのだ。本作をアニメ史の文脈で論評を続けるのは今回の論旨から離れるのでここで止めるが、問題なのは、よく「ガッチャマン」でタツノコプロは飛躍を遂げた、と言われることが多いが、私はタツノコプロの第一の転機は、たとえタツノコプロ総体の本意ではないにしても、この「アニメンタリー決断」と考えるのが妥当ではないかと推測する。そしてこの論旨の流れからすれば、タツノコプロにおいて「ガッチャマン」が製作される際、意識的にではないにしても設定やドラマの構成面で「決断」の方法論に準じていたのではないか、と私が考えるのは順当というものだろう。「決断」についてはまた後々内容がらみで論を展開することにするが、少なくともタツノコプロが「ガッチャマン」単体のみでブレイクしたのではなく、まず飛躍の前段階として「決断」があり、それをステップにして「ガッチャマン」が出るべくして出た、それが実情だと私は思うし、あくまで公の年表から鑑みてもそのような流れが存するのは事実だとして間違いないだろう。「ガッチャマン」と「決断」の目立った相違点は、戦う相手が全き善悪に分かれていることとそうでないこと、今考えてみるとそれくらいしか思い当たらない。 というか、このことに気付いたこと自体に私は驚いている。殊に近似している例を挙げれば、戦いの場が陸海空いずれにも及んでそれぞれ専用の武器が用いられている点、次いで両者とも新技術の開発合戦を行っており、その投入の機を見て過たないことが勝敗を決する重大要素となっているのである。特に装備の役割分担に関しては、それまで「鉄腕アトム」「鉄人28号」「サイボーグ009」(これでは個々のサイボーグ自体で分担があるが)「マジンガーZ」での戦闘主体およびその乗機は基本的に陸海空を問わない汎用なのに対し、「ガッチャマン」は上記のものよりかなり用途に拠る分担を意識的に設定に持ち込んでいる(もちろん「ゼロテスター」や「ゲッターロボ」と同じように、UK特撮作品「サンダーバード」の影響も少なからずあるだろう)。タツノコの先発作品「マッハGOGOGO」においてマッハ号単体にいろいろな機能が付属していることを併せて鑑みると、これもあくまで邪推だが、「ガッチャマン」はそういう意味でもアニメ史的に一つの転換点であるかもしれないのだ。つまり、「機動戦士ガンダム」がリアル・ロボットアニメの元祖だとしたら、「ガッチャマン」はリアル・タクティクスアニメの嚆矢と言えるだろう。そしてその背後に本物のタクティクスドラマ「アニメンタリー決断」が厳然として存在し、その二段構えの転機があったからこそテレビマンガが子供向け娯楽動画から無印の「アニメ」へと進化し得た、その重要な一因になったと言えるのではないか。そしてその構造は、奇しくも私が以前に分析した、大人向けアニメを監督したが評価されることのなかった山本瑛一氏が、その方法論を「宇宙戦艦ヤマト」において製作時の意識という面で援用したことにより、同じく「アニメ」という概念を作り出したという構造と酷似、いや完全にリンクしていたと見ることができる。 話はさかのぼるが前回に述べた、鳥海尽三氏が「(『ガッチャマン』は後から思うと)あまりにもずさんで荒唐無稽だった」との証言の起因を推測すると、「決断」の影響下で「ガッチャマン」というアニメ全体にとっても新機軸を打ち出すことができたが、これほどタクティクスを基調とした子供向けバトルアニメの前例が少なくとも日本においては存在せず、かつ製作の悪条件下で現場処理に忙殺され、ある意味ベースを固めきれないまま見切り発車(今にして思えば)という形で製作に及んだことを、心外の事態だったと鳥海氏は判断されたのだろう。 私が以前に著わした、『「ガッチャマン」が素直に私の心に入ってこない』という事態も、このことを考慮すれば説明が付きそうである。「決断」を援用することで子供向けアニメにおける新しい戦闘描写としてタクティクスを重要視するようになった反面、戦う側のメンタルな側面を描写するのに必要な人物設定などが十全に行われなかったためか、個々の裡に存するはずの戦いに臨む本質的なモチベーションというものが私には見え辛かったのだ。そして私が「ガッチャマン」を観る際は、例えれば他人同士がプレイしているチェスを横から見るような姿勢になっていて、ルール的な側面でしか判断することができず、どちらが流れとして優勢だとかいったことはわかるが、この打ち手がどう考えてどう動くか、そして相手をどう思っているか、といった打ち手の内面に迫るような情報や演出の明示がなされておらず、それで全体として平板に映ってしまったようなのだ。だから、再見時以降においても深く掘り下げるべき葛藤や懊悩が顕著には見出せず、どうしても浅い印象しか残らなかった、そのあたりに起因するのだろう。 タツノコプロ内でこのことを失敗に類する事態だと判断したのは、確認しうる限りにおいて鳥海氏お一方のみだが、このことを轍として踏まない努力を図るべく、主人公側および敵側の主体的行動のモチベーションを徹底して考慮し構築した結果、「新造人間キャシャーン」を産み出し得たと私は判断する。しかしこの作品もなかなか曲者で、往時の私も手放しでアドバンスが見出されたと喜んで観ていたわけではないのだ。 ということで次回はようやく「新造人間キャシャーン」を取り上げることにする。請うご期待。 第四十五回へ続く 追記 前々回に「ここでは取り上げる枚数も時間もないので、この件については次回の論述へ回す」という旨の断りを二箇所ほど行っていたが、結局今後もその二件を取り上げる紙面の暇が見つからないようなので、この二件については後々の記載とせずに、前々回の文章に加筆修正を行うことで補う予定なので、どうかご了承いただきたい。
四十三、タツノコプロ・その4 「科学忍者隊ガッチャマン」その4
これまで三週に渡って「ガッチャマン」を扱ってきたが、本作の魅力を醸す重要な位置に存し、いまだファンの語り草になっている愛すべき、そして恐るべき敵組織、ギャラクターについては何故かほとんど言及していなかった。取り上げるのを忘れていた訳でもないし、無意識に忌避する理由も思い当たらない。そうして思索を続けるうちに判明したのが、私がある事柄に拘泥して取り上げる暇を見出せなかった、要するに忘れていただけのようだ。その事柄についてはもちろん後述するが、今回は忘れずにギャラクターについて触れよう。 まず「ガッチャマン」第一作で万人が認める、強烈な個性を放っているキャラクターと言えば、ギャラクターの最高幹部ベルク・カッツェであろう。 名前がドイツっぽいのにナチス系ではなく往時でもなかなか絶妙なネーミングに思えたが、この人自身はとにかく変な人物に見えた。ギャラクター構成員の中でも異彩を放つ服装をまとっているし、顔のアップが出れば唇に口紅、口を開けばあまり他人に配慮を払うつもりのない高踏的な言葉を吐き、口調となるとまるでオカマなのだ。そしてこれはCVである寺島幹夫氏の功績が大きいのだろうが、ただオカマ言葉を話すだけでなく、仕事と生活に疲れ化粧はおろか髭を剃ることもおろそかに店へ出てくる、中年に差し掛かってもプライドだけは高いオカマバーのママのような口調、いやもっと言えばそういう性格に映るのだ。始めの頃は高踏的な雰囲気が前面に出ていたが、後々になってくると隊員たちと漫才ばりの掛け合いを演じて失笑を覚えたものだ。 それではこの人物、単なるセコさ丸出しの中間管理職でしかないのか?と思えばそうでもなく、ガッチャマンチームに追い詰められて袋小路に至ったとき、必死に抵抗する隊員を尻目に、平然と壁抜けをして逃亡したりするのだ。その壁抜け、あまりにさらりとやってのけたので壁に何か仕掛けがあるのか、などと幼い私は疑念を抱いたが、後年になって設定を洗うと、この人は総裁Xが男と女を融合させて作ったミュータント、ということだ。そして二人分の脳細胞を持つため、IQが280もあるらしい、とある。もとより誤用の多いIQの話はともかくとして、それだけの知性を持つとか二人分の身体能力を発揮できるとかはまだわかるが、この人がまだ人間の枠内にあるのならば、壁抜けなどの特殊能力を持つことがミュータントの特性として挙げられるのだろうか?という疑問を、すべての設定を押さえていた訳ではないが幼い私は漠然と抱いていた。 結局その疑問に対して、私が納得しうる理由を呈した資料にめぐり合う機会はいまだに逸しているが、この辺の厳密な考察はともかく、捉えるのにわかりやすいヒーローアニメの敵役としては、これ以上に特異なキャラクター性を持った存在は他に例がないだろう。製作者にすれば、山場以外では荒唐無稽なギャグキャラとして扱える側面も持っているし、イベントのクライマックス時にはその常人らしからぬ言動で不気味な存在感を与えることも出来る、まさにアニメに適した敵役キャラだ。後発を当たると直系のゲルサドラ、「タイムボカン」シリーズの小原乃梨子氏演じるバカ女上司キャラなどに枠を代えて移植されており、他社作品に至れば枚挙に暇はないだろう。 ちなみに、先に挙げた「ガッチャマンⅡ」に出てくるゲルサドラという名前、ベルク・カッツェのごときそれらしさがなくベタベタの悪役に聞こえ、正直なところ初見時は興が少し下がった。しかし性格は前作よりアドバンスが施されたようで、オカマ性が更に強くなり、そのコスチュームと相まってエクセントリックな雰囲気を醸している上、時代劇めいたセリフ回しもなかなかツボだったが、全体としてはベルク・カッツェより存在感が小さく感じられ、主観でも総裁Xの側用人くらいの格しか備わっていないように映り、敵役としては前作よりパワーダウンしたと言わざるを得ない。そういえば小学校の頃、日常的にふざけた言動をまき散らす同級生がいて、そいつが一時期何かにつけて「おの~れおのれガッチャマン」などとゲルサドラのセリフを口にしていた。その彼が「『ガッチャマン』のベルク・カッツェの真似」と称していたのだから、一般の認知度もそのようなものであろう。ちなみに、たぶん第一話だと思うが、このゲルサドラ誕生のビジュアルはSFとして不気味な説得力を孕んだ独特の雰囲気を醸していて、その後に期待を抱いていたが、いざ本編が進むと前述の通りだったので少し失望してしまった記憶がある。 その彼らの上に立つギャラクターの首領、総裁Xは彼らに増して不気味な、いや、不気味そのものをフィルムに焼き付けたようなビジュアルと存在感を表出していた。真の姿が見えない悪の首謀者、というコンセプトはほぼ間違いなく「仮面ライダー」のショッカー首領からの援用だろう。もちろんそのようなコンセプトは、他のアニメや実写映画、ドラマにおいても常套手段だったので特に新鮮味は覚えなかったが、最終回にその姿を明かさないまま巨大なロケットで脱出する光景を目にした時、アニメのカテゴリーにおいて最高に不気味、いや実際背筋に氷が走る感触を覚えたものだ。 その一番下っ端に位置したギャラクター隊員、これは「マジンガーZ」の戦闘員のように脳改造が施されている訳でもなく、洗脳されている節もない、それにやけに下世話でモチベーションも低く、いったいこいつら何なんだろう?などと初見時から思っていたら、後年当たった資料によればそのほとんどが雇われ兵隊、つまり傭兵のようなもので、ギャラクターと目的は合致するが、対立していた組織の戦闘員が吸収されて居ついている者もいる、とのことである。確かに、ほどなく後に観た「ルパンⅢ世(赤ジャケット版)」によく出てきた、犯罪組織の最下層にのさばる三下と雰囲気が似ているな、と思っていたが、そのはずである。 さて、以上のように「ガッチャマン」第一作について長らく述べてきたが、締めに用いるに相応な結論が現時点でも見出され得ない。しかたがないのでwikiなどの設定を当たってみると、またそれとは別枠でこれが面白いのだ。 例えばこの第一作の時代設定がなんと2010年、まさに今年だということだ。とすると我々はイラク戦争やチベット争乱に加え、ギャラクター侵攻という非常時をも抱えていることになるのだ。幸いにして鉄獣メカもゴッドフェニックスもこの世にはまだないが、技術のハード面での加速度的な進歩やいまだ世界で戦争が絶えない事実を鑑みると、こういう世界もあながち空言と伏すべきではないだろう。その他にも驚いた、というか笑えたのが、みみずくの竜があのなりで十七歳だということ。他のメンツはそう設定として無理はなく思えるが、竜は外見だけならどう考えても二十五を過ぎてるだろ、と文面を前に突っ込んでしまった。 そうやって資料を当たっていくうちに、他の人にはさして気にしないトピックだろうが、私としては非常に気になる記述をその内に見出した。 だいたい私は、出典元のはっきりしない引用の証言を積極的には用いないことにしているが、wikiにおいて鳥海尽三氏が「『ガッチャマン』は後から思うと)あまりにもずさんで荒唐無稽だった」と証言したとの記述に、私の目は引きつけられた。少なくとも私の調べた限りではその引用元を確認し得ないが、もしこの言葉が真に氏の口から出でたものであれば、これまで私の抱いていた疑念を晴らすヒントになり得ると思うのだ。 「ガッチャマン」製作がタツノコプロの一つの転換点だ、とはよく言われることである。確かに、字面のみの年表では作品タイトルという限られた情報から内容を鑑みる作業が必要になるが、MOOK本などでよくあるような作品のビジュアルが年次順に並んでいるのを見ると、その変化は一目瞭然だ。「ガッチャマン」以前ではあえて「紅三四郎」を除くとどこかしらアメリカ製アニメの匂い、しかも虫プロ作品のようなディズニーフォロワーでなく、どちらかと言うとハンナ・バーベラ社製アニメを範にしたような印象を受ける。もちろん両社(日本の)ともそのヘッドがマンガ家であるから往時の少年マンガの傾向に沿ったストーリーや構成が援用されているが、戦前より育まれ敗戦で一旦断絶した日本発アニメは明らかに米製アニメよりパワーに劣り、また即時性を求められるテレビ時代にそぐうモデルケースとはなりえないので、どうしてもアメリカの方法論に倣うことになってしまったのだろう。しかし、おそらく虫プロは社長である手塚治虫先生の影響力が強く創立時に形成された枠組みから良い意味での逸脱ができず、新しい芽も吹くことなく新機軸を打ち出す体力を保持できなかったため離散の憂き目に遭ってしまった。その一方、少なくとも形の上ではワンマンにならず後進を育む土壌をも耕し得ていたタツノコプロは、方法論のみならず扱う題材でも限られた価値観のみにしがみつくことなく、柔軟な製作体制を地道に築くことができたのだろう。そしてその方向性が最も顕著に現われたと思される作品が、タツノコ作品の中でも異色作の最右翼である「アニメンタリー決断」だと私は考える。 論述の途上だが、ちょうど段落の切れ目で予定していた枚数に行き着いてしまったので今回はこれまでとし、次回は「ガッチャマン」の続きというより「ガッチャマン」が成立した背景を「アニメンタリー決断」付近より遡行して考察を行い、その流れで「新造人間キャシャーン」以降へと論をつなぐ方向で進める予定だ。請うご期待。 第四十四回へ続く Tags:#科学忍者隊ガッチャマン
四十二、タツノコプロ・その3 「科学忍者隊ガッチャマン」その3
ご存知の通りタツノコプロには多数の才能を持つクリエイターが集結、あるいは才能の萌芽を育て輩出していったが、その源泉、創生の中核となった最重要人物が三人存在する。タツノコプロの初代社長、吉田竜夫氏(故人、本名・龍夫)、二代目社長、吉田健二氏、三代目社長、九里一平氏(本名・吉田豊治)。この三方はその名の顕わす通り血を分けた実の兄弟で、業界の人間やファンから親しみを込めて「吉田三兄弟」と呼ばれている。それぞれ最初はマンガ家としてスタートしたらしいが、やはり手塚先生などの影響があったのだろうかアニメを志向するようになり、やがてこの三方が中心となってタツノコプロを設立したということである。 今回はタツノコプロ総論ではないのでこれ以上の来歴は割愛するが、前回に提示した「家族同然」という初中期タツノコ作品で見出される要素は、やはりこの三方がタツノコプロの基礎となっていたことに起因すると思われる。ご三方の両親は早くに亡くなられ、主に竜夫氏が兄弟の面倒を見ていた、との記述が資料にあるのでそういった経緯が、家族の結び付きを深めることこそがそこに生きる者の心の糧となる、という考え方の基礎となったのは想像に難くない。 しかし吉田三兄弟は、家族という結束態の契機を血縁ばかりに求めはしなかった。それは三方ともマンガ家を志向したという特殊事情もあるだろうが、まず商業的なベースで創作活動を行うには中心の作家を補佐する他人、普通に言えば部下の存在がなくてはならない。そうして出来た組織がまだ小規模であればさしたる意識的格差は存しないだろうが、アニメ製作など多人数での共同作業を必要とする職場では、効率化などの理由で縦方向のシステム化を進めなければならないのが常で、そんな現場ではどうしても質的な階層化が避けられない。その場合は往々にして、入ってきてそこそこくらいの階層つまり下に位置する人間は組織にとって、あくまで人間として不全で疎まれるべき存在あり、階層が上がり役職を持つような人間となると、発注元やスポンサーの意向もあって恐れ畏くも天上人となってしまう。それは利益を生むシステムとしては社会的に正しいが、少なくとも創作を行う場において執るべきシステムではない。もちろんアニメ制作とはいえ会社であるからには運営に際し利益を考慮しなければならず、下の意向を上が汲み、上の構想を下が把握できる、といった創作現場の理想郷とはまずなり得ない。 そんな中、タツノコプロは商業ベースに乗っかって運営されているにもかかわらず、もはや作家と呼べるほどの極端に個性的なクリエイターを多数受け入れ、育て、輩出した。その具体例を挙げるとすればそれこそきりがないし、他の作品やカテゴリーでも取り上げるべき人物は山盛り状態なので個々の考察は後に譲るが、タツノコプロにおいてそんな教育態勢が可能だったのは、やはり吉田三兄弟の持つ意識の問題(というか功績)だと思われる。当初、三方は兄弟で仕事を進めるという成り行きで集結し、当然ながら三人の間には互いに家族の一員だという意識が存在するのだが、アニメ製作の際その意識を、通常はあくまで部下や従業員と称される、タツノコプロ社員全般にまで援用してしまったのではないだろうか。この考察はあくまで作品内容を熟慮しての推論に過ぎないが、これを裏打ちする逸話として、中村光毅氏が大河原邦夫氏を、天野喜孝氏を吉田竜夫氏直々に、それぞれ師匠と弟子というよりほぼ親子のごとく面倒を見て、発掘当初は原石かどうかさえ不明だったのが後々には両者ともタツノコを支える大柱にまで成長させた、という逸話がある。殊に吉田竜夫氏は自身と同じく父を早く亡くした天野氏に、文字通り父親のように(というより親の役割そのものを以って)接していたそうだ。また笹川ひろし監督は、入ってきたばかりの押井守監督を下に置きっぱなしでこき使うような真似を踏まず、いきなりコンテを書かせるなど実戦配備の訓練を実地で叩きこんだそうである。もちろんそれだけ上司三者の慧眼が働いたのかもしれないし、それとも単に人手が足りなかっただけなのかもしれないが、例えその新人に原石の兆しを見出したとしても通常の新入生にさし当たって課すべき扱いで収めることはなかった、少なくとも現象面ではそう見えるのだ。もちろんこれは、よくある師匠と弟子の間の師弟愛と称すべき、との見方もできるかもしれない。だが一方で師匠というものは、その保持する技術が高ければ高いほど、弟子を育て技術を伝授する際に自分がこうむるリスクを異常なほど恐れる傾向にある。そして私が見る限り、先の上司たちは自分の部下を使い育てるに当たり、商業的なリスクをほとんど眼中に置かなかったようだ。 このような事例を鑑みて、「家族同然」の源泉が吉田三兄弟より由来すると断定するのは確かに早計だろう。しかしタツノコプロ総体、そしてタツノコ作品全般にそういった雰囲気が漂っていたのは、当時見ていた幼い私の目にも明らかであった。そしてそれが最も露骨に、しかも未消化な形で出ていたのが「科学忍者隊ガッチャマン」だと私は推測する。 今の世相では、家族が結束することで繁栄がもたらされるのは常識、当たり前、むしろ義務だということになっている。しかしおそらく、当時でも、家族は一致団結して明るく楽しいものでなければならない、という類のスローガンが、メディアの中心およびその端々においての発信が横行していた。スローガンとしてある見識を喧伝しなければならないということは、実際にそのような事態は稀なケースでしかなかったことの証左ではなかろうか。ちなみにそんな事情は、いま現代の家族においても同様である。血縁で結ばれている、姓が同じであるから自ずと和が成り立つ、といくら声高に言っても、行動、認識主体としてはあくまで他人だ。人と人とが信頼を交わし得る強固な関係を築くには、たとえ血縁間であってもまったくの無条件で容易に成しうる事はなく、その個々人が互いにいくばくか、あるいは多大な努力を払う必要がある。その労を惜しまずに結果を出し得た好例が、件の吉田三兄弟のケースだと私は考える。 吉田三兄弟は作品製作という特殊な状況下において、家族的結束を良い形で利用することにより良好な関係や仕事結果を築き得たが、それを血縁に帰すばかりでなく組織全体に敷衍すれば、自分たちの場合と同様に、よりクリエイティブな環境を醸すことができるのでは、と少なくとも心中では考えていたのかもしれない。そしてそれが意識上に上らなくとも、彼らが部下を指導する際に垣間見せた方法論を、その部下たちが汲み取ることで自然とそういう空気が形作られていったのだろう。 「ガッチャマン」において立場が固定化したカリスマ的ヒーローを設けず、五人の力を一つにして困難に立ち向かう、というコンセプトが採用された際、製作者たちの頭の中でこのタツノコプロ自体に存する空気を方法論として援用しようという考えが意識無意識いずれかに上り、明言はされなかったろうがそういう態度で製作に臨んだ結果、直接その意識が作品にも反映されたのだろう。そういう形を執ったのがある意味成功だったのは、その後のフォロアー、多数のアニメや特撮ヒーローものにおいて「ガッチャマン」と同じコンセプトが援用されたことからも類推することができる。しかし後述する、私が重要と見なしたある要素を欠いてしまったため、少なくとも私の内で「ガッチャマン」の評価は未だ世間より低いところで落ち着いている。今回は上記の分析などで過分に枚数を費やしてしまったので、その問題提起はまた次回に譲ることにする。 こうして血縁のア・プリオリな関係性が、ストーリーに多大な影響を与える要素としては用いられなかった「ガッチャマン」においてただ一例、主人公に心的な影響を与えた血縁にまつわる有名なエピソードがひとつ存在する。過去に行方知れずとなり、作中では正体を隠しレッド・インパルスとしてガッチャマンを補佐する役回りを担った、大鷲の健こと鷲尾健の実の父、鷲尾健太郎のことである。 彼の指揮下にあるレッド・インパルス隊は、ギャラクターとも拮抗するほどの技量を持つ精鋭の戦闘機部隊であり、実際科学忍者隊も敵わぬほどの敵部隊をしばしばその力で除いている。それを指揮する任に就いているとなれば、彼もまた相当の男であるはずだ。しかしなぜか、私の心に鷲尾健太郎という人物は重厚な存在感を以って入ってはこなかった。 男児にとって乗り越えるべき壁であり、かつ男児の抱く幻想としての目標である父の存在というのは、アニメを観ている私が最も心惹かれる要素なはずだが、なぜそうならなかったんだろう、と考えて、往時の記憶をたどってみた。 すると、確かに健太郎がまだ戦士として技量も経験も甘い健に対して厳しく指導するイメージは残っているのだが、それが健の魂を鷲づかみにするほど肉薄してはいなかったような気がするのだ。それは健太郎と健とが別枠で戦わざるを得なかったという事情もあり、健の生い立ちに父の健太郎が負い目を感じていたという理由もあろう。作品全般を見渡せば科学忍者隊の父親は事実上南部博士であり、設定では博士と健太郎はかつてより親友の間柄だったということである。そうするとうがった見方をすれば、大鷲の健には二人の父親が存在することになる。 この場合、この二人の父親が同時にバインディング・ファクターとなる、つまり二人の間で健が板ばさみとなって、そこからまた健の新たな心的展開を描く方法に行くか、あるいはバランスを保つためどちらかを引かせるか、この二つの道のどちらかをたどらせるより他に、広げた風呂敷を包む方法はないだろう。そしてその結果、健太郎はギャラクターの野望を阻止するために、成り行きとはいえ自ら命を投げ出したのだ。 しかし私としては、その散華の模様も納得行くものではなかった。いくら切迫した状況下とはいえ、当時の科学力で弾頭を換装したとはいえロケットを操縦するのに、名目上は有人操縦が必要であるにしても、せめて自動操縦の機構ぐらいは付属しているはずだ。その当時でも大型旅客飛行機に自動操縦装置は欠かせないものだったし、ましてSFの世界で宇宙船を運転中、「自動操縦に切り替えます」というアナウンスがなされる例は枚挙に暇がないほどだ。ドラマ上必要な仕掛けだったにしても、表立ったあざとさが当時でも見え見えだった。 もちろん子供向けヒーローものでそこまでリアルに描いていたら、観ている子供たちが興ざめするかもしれない、と制作者側が判断した結果、こういう仕掛けになったのだろう。 健太郎の存在感のなさは、そういったストーリーテーリングの配慮上、成り行きで形成されたものである可能性か高い。 また、健太郎の言動をうかがっていると、私には「マッハGoGoGo!」のXの姿が彼と重なって映る。おそらく健太郎のモデルはXと見て間違いはないが、Xが陰日なたから剛を見守り諭すのに対し、健太郎は自ら戦うことによってしか健に自らの範を示すことができない。それには幼い健の元から見捨てるように離れた負い目が大きいのかもしれないが、Xの立場を再現したかったのであれば、逆にもっと強権的な態度を執らせても良かったのではないだろうか。そうすれば話に幅を付与し得たかもしれないが、そのレベルまで掘り下げることは現場的に不可能だったのだろう。だから鷲尾健太郎は、中途半端な父親にもなれず退場する憂き目を見、初見時は私の心に深く刻まれることもなかった。 そしてもう一つ、健太郎が健に対して十全たる父親の役割を果たせなかったもう一つの理由を、私は熟考の上に見出したのだが、また別の要素が絡んでくるので言及は次回に回したいと思う。 今回も予定枚数をはるかに超え、結果的に家族という縛りだけで「ガッチャマン」を語ることになってしまった。もちろんこの事態は、それだけ論題に応ずる分析が深化したことの顕われであり、のちのち何らかの表現物を著す際の参考になるので徒労に堕すことはないと判断する。しかしこれほど、私が「ガッチャマン」に対して語り得る言葉を持っていたとは、正直自分でも驚きを禁じえない。 そして次回も当然「ガッチャマン」を引き続き取り上げ、出来うるならこの論題は次で終わりにしたいと思う。また「キャシャーン」の際は、どれだけ長くなるかわからないからだ。 ということで、次回も請うご期待。 第四十三回へ続く
四十一、タツノコプロ・その2 「科学忍者隊ガッチャマン」その2
再見時、つまり初見からいくばくのブランクを置き、再放送で「ガッチャマン」を二度目に視聴した際、私は初見時にも何となく抱いていた、何やら言葉で言い表すことの出来ない悲壮感、焦燥感をブラウン管の中から見出していた。「キャシャーン」の場合なら世界の大半はブライキング・ボスの侵攻で荒廃し、自らサイボーグとなったキャシャーンが引き返せない戦いに身を投じる、という切迫した状況があるからわかりやすいが、「ガッチャマン」ではそういった言語化できる理由が見当たらないのだ。確かにギャラクターは巨大な兵器など高度な科学力で以って地球を征服しようとしているが、世界の大勢がギャラクターに傾いている訳でもなく、ガッチャマンチームにも暗い過去があったりするがそのこと自体が作品の内容に影を落としているようでもなさそうだ。登場人物の過去がストーリーと深く関わってくるのは、例の大鷲の健とレッド・インパルス(鷲尾健太郎)との確執と、ベルク・カッツェの正体を巡るキワモノ的なエピソードぐらいだ。それ以外のほとんどは、ガッチャマンたちとギャラクターのそれぞれ防衛と覇権を賭けた戦いを描くもので、内部の齟齬を描くなどの特例のほかは血沸き肉躍る戦いを描いたものであるはずなのだ。 先にも述べたとおり、私の覚えた悲壮感や焦燥感を言葉で論理的に説明するのは難しいので、私の心に引っかかったエピソードを列記することで、言語化し得る要素を割り出すことにする。 まず違和感を覚えたのは、これはアニメファンの間でもかなり有名な話だが、ギャラクターと戦闘の際に血気走ったコンドルのジョーが、ゴッドフェニックスの主要兵器であるバードミサイルの発射スイッチをやたら押そうとし、冷静さを残した大鷲の健がジョーを制止し、確執が起こるというエピソードである。そもそもバードミサイルは主力兵器なのだから、使うのを抑えるにしても健の言うごとく、精神論的に撃つのはおかしい、などと語気を荒げるのは当たらないのではないかと当時も思ったし、単価が高く量産が難しいとしたら、使い過ぎて残存数が少なくなったところで「弾は残り少ない、慎重になれ」と諭した方が対立は生まれにくいし、考えてみれば空中戦において最後は火の鳥で敵機を焼き尽くすのだから、バードミサイル発射ごときで道義的責任は発生しないはずだ。 これを見ていたのと同じ頃、どこの局か忘れたが昔の特撮映画やドラマの名場面を抜いて紹介する「日曜スペシャル」という番組が放映されていた。私自身は嫌いなのに私の意向を除いた家族の要望で日曜夕方に「サザエさん」を見せられ、サザエさんシンドロームをかき立てられた上にユルいネタと平板な演出に接して生じるイライラを、「日曜スペシャル」を見ることで解消していたものだ。その中で「忍者部隊月光」という「快傑ハリマオ」みたいな架空戦記ものが紹介されていて、隊長の眼前で部下が銃を使おうとすると、「待て、銃を使うな、銃は最後の手段だ」と諌めるというシーンか何度も繰り返された。「ガッチャマン」と「日スペ」を見たのは同時期で、「何だ、このおっさん、『ガッチャマン』で出たのと同じせりふ使っているな」などと思っていたら、実は「忍者部隊月光」の原作者がタツノコプロ創設者にして初代社長、吉田竜夫氏その人だったのだ。「月光」の企画製作にタツノコプロは関わっていないが、そのセリフとシチュエーションからして同じ文脈上にあると考えてよいだろう。 しかし、なぜ吉田竜夫氏はわかりやすい大義名分も挙げず、補充の利く兵器を多用することに難色を示すようなセリフを、登場人物の言動に繰り返し織り込んだのだろうか。少なくとも作中でその真意をうかがい知ることは出来ないが、私が三十を過ぎてから初めてタツノコ作品「アニメンタリー決断」に接し、いくらか視聴を続けるうち、吉田竜夫氏は飛び道具に対してある種の懸念を覚えていたのではないか、と思ったのだ。「決断」で多用される作品の主眼的なフレーズは、まさにそのまま「人生で最も貴重な瞬間、それは決断の時である」というもので、これを援用してバードミサイルを撃つことをある種の「決断」と考えると、吉田竜夫氏は拙速で安易な他傷行為など人の成すべき技ではない、と主張しているようにも取れる。科学忍法火の鳥は最後の必殺飛び道具だが、我が身を燃やし敵機に突っ込んでいく、という姿はむしろ究極の肉弾戦「特攻(神風特別攻撃)」にも見える。ちなみに、この後発編「科学忍者隊ガッチャマンF」においては、まさに健自身がガッチャ・スパルタンの機首に立ち、剣を構えて生身のまま敵機に突っ込む、という特攻すれすれ(いやそのもの?)の必殺技が用いられている。これらの表現を踏まえると、竜夫氏が特攻を賛美している訳ではないが、命を賭すほどの覚悟なしに戦うのは人の道にもとる、という信念を氏が抱いている上の表現なのではないか、と私は憶測する。資料を当たったところ竜夫氏には直接の戦争経験がなさそうだが、「決断」を製作するに当たってプロデューサーとして考えることがあり、そこから導き出されたものを「ガッチャマン」にも応用した、とは考えられないだろうか。この憶測が正しければ、氏の想いを私の言葉で語るとすると、「人と人との間で生ずる命を賭した争いの場においても、人として守らねばならない一線が存する」というものだろう。少なくとも私の考えでは、「ガッチャマン」の底流に流れる悲壮感は、「戦争はいけない」などという狭隘で一面的な印象の発露に収まらない「戦争という人の業」を描こうとする、竜夫氏以下スタッフの抱く心構えに起因しているように思える。 次いで取り上げるエピソードは、悲壮感の源泉としてはわかりやすい話だろう。相当する話はおそらく#39、#40の「人喰い花ジゴキラー」前後編だと思われるが、この話では文字通りジゴキラーという肉食植物が出てきて、巨大な鈴蘭のようなつりがね状の花弁に動物が誤って入り込むと、その口を閉じ消化液で獲物を溶かして吸収するのである(そういえば、後年の「宇宙の騎士テッカマンブレード」で人間を取り込み悪のテッカマンに変えるカプセルの形状が、ジゴキラーに近似していたと記憶している)。またしても話の前後は記憶にないが、前編の終わり近く、ジゴキラーの群生を一人で調査に行った(らしい)ジュンが誤って花弁に飲み込まれてしまい、変身すれば助かる術はあるのだが、喰われる際にあがいた拍子なのか変身に必要なブレスレットを付けた右手だけが花弁の外にあるのだ。辛うじて通信だけはできたが、花弁の締め付けは強く、右手を引き込むのはジュンの力でも不可能なようで、まして花弁を破り窮地を脱することなど当然できない。しかも本部から、ジゴキラーの繁殖力を鑑みると少しの間でも群生帯を放置すれば、その種が人間の生活範囲にまで及ぶ、との試算が出される。一刻も早くジゴキラーの群生を処分しなければならないが、そこにはまだジュンが取り残されている。種々の打てる手を試したが及ばず、南部博士は苦渋の決断を下す。ジゴキラーの群生が燃え上がる光景に、炎の熱さでもだえ苦しむジュンのイメージが重なる。辛い表情を隠せないガッチャマンチーム。特に甚平は以前よりジュンとともに暮らし、実の姉のように慕っていたのでその懊悩は計り知ることすらはばかれるほどだった。これで前編が終わり、次の日の放映は後編だからどうやってこの難局を切り抜けるのだろう、とはらはらしつつ楽しみにしていたら、なぜか話数どおりに流されず翌日の冒頭はいきなりジュンのスナックでみんなが普通に話しているシーンだった。だからこのエピソードの顛末は知らないが、ジュンが何らかの方策で助かったのは明らかだろう。 しかしここで私が覚えた悲壮感は、ジュンが死んでしまうかもしれない、といった表層的なものだけではない。窮地に立たされたジュンの身を、甚平が我がことのように案じる描写からも来ているのだ。そして甚平だけではない、ジュンが好意を寄せている健はもちろん、その場にいた誰もがこの上ない悲痛さを隠せずに取り乱す。もちろん軍隊などチームの結束が固いことを描くために、仲間の安否を過剰に心配する様を描くのは決して珍しいことではない。しかし彼らは単にギャラクターに対抗する目的だけで集っているのではなく、諸事情により親と離れて過酷な環境で育ったため、本来は縁も所縁もない他人であるガッチャマンチームを互いに寄る辺として共に暮らしているのだ。みみずくの竜だけは郷に肉親がいるので例外とする必要があるかもしれず、健にも鷲尾健太郎という父親の存在がのちのち判明するが、それらを加味したとしても彼らはまるで本物の兄弟、いや血のつながった肉親よりもはるかに固く結ばれているのだ。そしてもちろん南部博士が彼らの父親代わりであり、彼の知性を伴った人徳も、彼らが互いに関係を築く際に強い影響を与えているのだろう。 「ガッチャマン」に限らず、初期から中期にかけてのタツノコ作品では仲間同士の、家族同然の絆が頻繁に描かれている。タツノコは家族の絆では?と疑問に思われる方がいらっしゃるだろうが、上記の範囲において実際に血縁関係のある家族が、チームの重要な構成要素として描かれているのは「新造人間キャシャーン」「てんとう虫の歌」「一発寛太くん」と、私の記憶に残るか少ない資料に基づけば、おそらくこれくらいだ。「昆虫物語みなしごハッチ」はどうだ、という声に対しては、この作品は主人公の動機こそ母を想うがゆえのものだが、それはあくまで母恋しものの設定の踏襲に過ぎず、ストーリーは蜂とばかりでなく、本来コミュニケーションが取れないはずの他の節足動物などとも交流(時に敵対)することで進んでいく。前述の三作品を除いたタツノコ作品における主人公側チームには、むしろ血縁関係がないか薄いが、家族同然、いやそれ以上だと思われる絆が存するように描かれている場合が多い。血縁関係がストーリーの鍵となっているのは、レッド・インパルス(鷲尾健太郎)のように主人公の青年が超えるべき壁としての父親の存在くらいである。 本来縁も所縁もない他人が家族のごとき結束を見せるのは、子供向けコンテンツでは「サイボーグ009」「レインボー戦隊ロビン」あたりの石森作品が嚆矢だが、少なくともタツノコ作品よりは関係性がドライに見える。 しかしなぜタツノコ作品において、実際に血縁で結ばれた家族が描かれる作例が少なく、他人だが家族同然のチームを多く描く傾向にあるのか。そしてなぜ、私がそのようなウェットさを苦手としていたのか。これを詳細に分析するなら「キャシャーン」などをも同時に取り上げる必要があるだろうし、今回は規定枚数を過ぎたのでここで締めておく。次回は上記の分析を補足した後、「ガッチャマン」におけるその他の重要なファクターについて述べることにする。請うご期待。 第四十二回へ続く p.s.今回はプロバイダのメンテナンスの都合で執筆時間が充分に取れず、論旨や表現の誤りを検証する暇がありませんでした。相当箇所を見つけ次第、折々加筆修正を行っていきますので、ご容赦を。Tags:#科学忍者隊ガッチャマン
四十、タツノコプロ・その1 「科学忍者隊ガッチャマン」その1
タツノコプロ作品のうち私が一番最初に視聴したもの、少なくともタツノコ作品として最初に意識した作品が「科学忍者隊ガッチャマン」(1st)である。 しかし、「新造人間キャシャーン」と並び、幼い私はこの作品をただの娯楽として漫然と受け取ることができなかった、どちらかというと観るのが苦手だった。「キャシャーン」の場合は、話の内容が暗くて重かった、と理由がはっきりしているが、「ガッチャマン」に関しては苦手だった理由がなぜか明確でない。おそらく、アメコミ調の濃い顔立ちの絵柄に接するのが初めてで、見ていて違和感が生じたのか、人型ロボットのような、主人公側が用いるべきと思っていたド派手なシンボルや戦闘シーンを期待していたため、チームプレイの際に生ずる複雑な齟齬や基本的に通常兵器のデザインを超えないGメカなどが素直に入ってこなかったのか、ただ一つはっきり言えるのは、私の中で当時「ガッチャマン」は既にアニメとしてはトラディショナルな位置にあり、1stに関してはおそらく初見が再放送であったため、初公開時にはアニメとして革新的だと見られた諸表現が、私の目にはもはや色あせて映っていたようだ。そして、「キャシャーン」には及ばないものの現実の社会問題を反映したストーリーが受け取るのに重く、個々の人間関係に囚われて作戦がうまく行かないという、今にすればリアルな展開も当時はわかりづらかったのだ。 どうも当時の私の中では、「マジンガーZ」あたりからうかがえた、「ストーリーの中核はある種の問題意識を喚起させるようなものになってはいるが、いざ戦闘に至るとテンプレートな展開に収まる」という構造が、ある意味広義のロボットアニメのイデアだったようだ。それらはサンライズ系の「超電磁ロボ コンバトラーV」以降の作品に継承されていった(「勇者ライディーン」だけは神話的要素が強くてまた別格)が、タツノコ作品は前述の構造とは微妙に異なるフォーマットの元に製作されていたため、一見してたちどころに心に入ってくる度合いが少なかった、と考えられる。 そのため初見時の記憶も断片的で、ゴッドフェニックスをはじめとするGメカの出動シーン、戦闘シーンは明確に記憶にあり、科学忍法火の鳥のビジュアルはなかなかのものに映ったが、同じ科学忍法の竜巻ファイターは何か間抜けに思えた。あとはタツノコ作品独特の講談調のセリフ、ミュータントという設定は了解していたが超人なのかバカなのかよくわからないベルク・カッツェの不気味さ、それに輪をかけて不気味だった総裁X、そのあたりは頭に残っている。エピソードとして覚えているのは皆無、当時のアニメ鑑賞の常で、初回から追うのでなく気が向いた時の飛び飛びの視聴形態だったので、本作で重要な位置を占めるレッド・インパルスの存在にもまったく気付いていなかった。 たぶん同じ頃に観ていた「キャシャーン」「破裏拳ポリマー」「宇宙の騎士テッカマン」と比べてもストーリー面の記憶が薄く、はっきり「ガッチャマン」という作品のカラーを意識するには再見時、再々見時を待たなければならなかった。 執筆にかけられる時間が普段より格段に少なかったので今回の論述はここまでにしておき、次回において「ガッチャマン」を再見した後に抱いた印象、およびその分析を述べることにする。ちなみにその分だけでいつもの規定枚数、おそらくそれ以上を費やすことになりそうだ。請うご期待。 第四十一回へ続く
三十九、「宇宙人東京に現わる」
三十年ほど昔、まだ私が学生の身分にも至っていなかった頃のことだ。当時私が住んでいた(今も住んでいるが)佐賀市にもまだ複数の映画館が存在していたが、いずれも単館でいわゆるロードショーシアター、封切り作品のみを掛けるところばかりで、二番館や名画座的なコヤはまったく存在せず、既に封切りされて久しい映画を鑑賞するにはテレビ放映などに頼るしかなかった。それも当時はレンタルビデオ屋がない時代で、名作と言われる類の映画は「何曜ロードショー」という夜のゴールデン枠で見ることが出来たが、それ以外の、本当の映画好きが観たがる駄作、怪作、企画ものといったB級やAB級(目も当てられない内容でも監督や俳優の名前だけA級というもの)映画を観るには、専ら深夜枠をチェックしなければならなかった。更にそれが子供向けとなると、邦画のA級アニメでさえゴールデンタイムに掛かることは極めてまれで、AB級に到っては昼の野球放送が雨天中止になった穴埋めみたいな感じでしか放映されることはなかった。 しかし当時のKBC(九州朝日放送、テレビ朝日の福岡ネット局)には、「朝の映画劇場」という枠が存在した。そのプログラムのラインナップがまた素晴らしく、殊更にエログロ政治要素を前面に出していないものであれば、一般向け子供向けを問わず10年くらい前までに封切られた日本製の娯楽映画を、毎週月~金一日も欠かさずに流していたのだ。その当時、KBCが午前九時から十一時までの時間帯に掛けられる番組が作れなかった、更に言えばキー局や他の制作会社から番組を買う金がなかったというような事情があったのだろうが、この番組枠の存在は私にとって極めて有難いものだった。ただ毎日映画が観られるばかりでなく、映画を観るのにも心構えが必要でその真価を知るには読解に必要な知識や演出技術の見定めといった訓練を積まなければならない、ということを教えてくれたのだ。そして同時に、この枠の映画群を見倒したことによって今のテレビコンテンツのダメさを認識し始めたのかもしれない。それでも本当に面白い作品を自分の目で評価する、という段階に到るには、高一の正月で黒澤明監督の「野良犬」に触れるのを待たなければならない。 現在のこのコラムで問題にしている時代は私の小学校低中学年時分で、当然学校に行く必要があるのでこの枠のすべてを押さえている訳ではない。ただ、前述したように生来の病弱のため学校を休むことが多く、その際には病を押して必ず見ていた。そして夏冬休みやウィークデーの休日でも休まず放映が行われ、特に夏冬休みには子供向け特撮映画が流れる確率が高く、前に取り上げた昭和ガメラ後期作品もこの枠で押さえたものが多い。その中の一本が、今回取り上げる「宇宙人東京に現わる」である。 しかし当時の私はなぜか、この作品を観る以前に「駄作」だとする中傷をどこかから聞き及んでいたらしく、またそのように文字通り思い込んでいた。日本の特撮映画の怪作と言えば「ギララ、ガッパ」であるが、「大怪獣ギララ」もまったくの駄作でなく、むしろ突っ込みどころが多いという意味で楽しんで観られるという印象が強いし、「大巨獣ガッパ」は結構筋がきちんとした佳作である。特撮映画に駄作が多いという主張には、子供向けという先入観から来る偏見が働いている場合が多いし、例え企画ものでも低予算で何とかしようとする製作者の熱さが伝わってくるので、一般映画より駄作が量産される割合は少ないと私は考える。私が「ギララ」「ガッパ」に触れるのはかなり後年のことになるのでその時詳しく述べるが、この時点での私がなぜ「宇宙人東京に現わる」を駄作判定したのか、論拠が何なのかもその出典元もまったく覚えていない。とにかくそれでフィルターがかかったのか、まじめに映像作品として鑑賞する態度を取らなかったようだ。そして幼い私はまだ古いフィルムに慣れてなかったため、娯楽作品として楽しむスタンスをも取ることが出来ずにいた。 内容を列記すると、地球軌道上に巨大な天体Rが迫っていて、それを阻止すべく地球に赴いたパイラ人が地球人との確執に悩まされながら、何とか地球側の協力を得て超科学兵器により天体Rの破壊に成功する、というものだ。地球に謎の天体が迫って内部でも確執が生ずる、という話の流れは東宝特撮の名作「妖星ゴラス」と同じだが、製作はこちらの方がだいぶ早い。しかし例によって私はこれを往時に視聴して、大枠は理解していたが細かいところまでの覚えはない。覚えているのは、岡本太郎画伯がデザインしたパイラ人の異様さと、その先遣隊の一人が変身した女性がとある湖の水面に浮かんでいるシーン、そして最終局面で天体Rに向け全ての核保有国が持てるだけの核ミサイルを発射し、衝突する様を巨大な望遠鏡で捉えているシーンだけだ。それでもいくつか事実誤認があったようで、湖に浮かんでいたのは身代わりに殺されたコピー元の女性だと誤解してそう思い込み、パイラ人は地球を救うためとはいえひどいことをするものだな、と興ざめた覚えがある。一方、今にすればおそらく大した技術は用いられていないはずだが、天体Rに核ミサイルが到達し、炎に包まれた天体Rの表面にぽつ、ぽつと小さな爆発が明滅しているカットが、何か妙にリアルでカッコいい印象を受けた。本当に、覚えているのはそれだけだ。 そして前回も述べたように、CS放送「日本映画専門ch」で「宇宙人東京に現わる」を始めとする大映特撮映画特集が今現在行われていて、本作を視聴する機会があったのでここからはそれに基づいて論を軽く展開することにする。 まず思ったのは、冒頭からまるで小津安二郎作品のようにやたら飲み屋がでてくるということ。仮にもSF映画なのにそんなベタな大人の世界を描くのかよ、と思っていたら、実は主人公の科学者がこの店の常連で情報交換の場として用いられていることを示すため、SFに明るくない一般の観客に科学的知識をわかりやすく意識させるため、そしてこの映画が子供ばかりでなく大人にもアピールしたいという制作者の意向を示すため、このような構成を執ったものと思われる。 そして本作のヒロイン天野銀子のコピー元となった女性は青空ひかりという芸名で、帝劇のトップスターとして有名だとの設定だが、このネーミングとキャラクターは明らかに美空ひばりを意識していると思われる。そしてこの天野銀子という女性はやたらと肌の露出が多く、もちろん往時の一般映画だから大したものではないが、テニスをするシーンがあってその際穿いていたブルマーからのぞいた太めの腿がやたらなまめかしく映り、また注視すればそう見せる演出もなされていたようだ。これも先ほど述べた、大人向け志向の現われだと思われる。 こういった点描が重なって話が難局攻略に集約していくと、もう流れは東宝特撮と違わないものになり、予定調和で天体Rの爆破に成功し後は将来の希望を表す子供の明るい歌声が聞こえてくる、という結末に至る。ただ展開の仕方であえて文句をつけるなら、地球総体で核攻撃しても効き目がない天体Rに対し、パイラ人が核兵器のグレードアップ版で対処したという展開は見た目に平板で、もう少しひねった対策を執らせられなかったのか、という不満は残る。と、ここでふと気付いたのだか「トップをねらえ!」における、縮退炉を爆縮させることによってブラックホールを発生させ密集隊形の宇宙怪獣群を一網打尽にする、という作戦は、「宇宙人東京に現わる」のこのベタな作戦に、SF的妥当性を持たせてスケールアップしたものではないだろうか。そう言えば本作のヒロインの天野という姓からして、「トップ」でアマノ・カズミというネーミングの元ネタ(厳密には違うが)を意識させたものと考えられなくもない。「トップにオリジナルなし」という岡田斗司夫氏の言葉を考慮すれば、充分に有り得る話だろう。もちろん邪推である。 また、パイラ人たちは地球を侵略したり殖民星にするつもりもなく、天体Rの衝突の危機にさらされているところを「助けよう」と言っているのに、その幹部の連中が地球人の容姿をやたら「醜い」「醜い」と評しているのは何だかなあ、という感じだった。「言い出した自分からやる」などと責任感の強さを見せたりしているのにバランスがとれていないのでは、と思ってみたが、よく考えるとまだ当時は文化人類学がおそらく日本に紹介されたばかりの頃で、それを援用した欧米SFの異民族や異人類に対するフラットな見方を中途半端に真似ただけのことなのかも知れない。 特撮自体は「地味な大映特撮」という評判が示すように東宝特撮と比肩し得るほどではなく、確かに大スペクタクルを強調せず本編と連動して地味な演出に終始している。前述した天体Rの映像も、そう精緻でないアニメーションで処理されたものと思われる。 しかし総体的に評価すれば、日本初のカラーSF特撮作品だということで喧伝が先行し、現場も大変で中身を詰める余裕がなく、娯楽作品以上のものにはなり得なかった、というのが正直なところだろう。 今の私にすれば、充分に面白いものではあったが。 しかし、モニターの前で本当に驚いたのは本編を観ている最中ではなく、エンドロールが終わってからのことである。 私が観たのは録画したもので、エンドタイトルが終わって再生を停止すると、たまたま付けていた同じ日本映画専門chの他番組が映り、その時は割と最近製作された邦画が流れていたのだが、これが一目見ただけで明らかに「宇宙人東京に現わる」より見劣りしているのだ。いやそんなはずはない、少なくとも技術面では近年の方が勝っているはずだ、と何でか知らないが妙にあせってしまい、先ほど覚えた印象が誤認であることを願ってそのまま視聴を続けた。しかし何分経っても、あえて名は伏せるその作品が「宇宙人東京に現わる」より面白くなく見えて仕方がないのだ。結局二十分ほど耐えたところでチャンネルを変えたが、その時点でこれが現在の日本映画の現状だろう、と結論付けせざるを得なかった。 おそらく大きいのは、時代自体や当時の現場が持つ娯楽に掛けるエネルギーの差、だと思う。今の現場が魂を傾けた製作姿勢を執っていない、とは言い切らないが、やはり当時は娯楽に対する執着、何かものを作る際のモチベーションの抱き方が、現在よりも半端でなかったのだろう。少なくとも私の見聞した限りでは、今の現場は効率よく製品を作るための工場(作業場というレベルにも至っていない)に限りなく近い、と断定せざるを得ない。作品を作る時に、魂を込めることは技術を詰めることよりも重要だ、そして今の現場で動いている人たちは技術を、私に言わせれば効率を詰めることを、魂を込めることと勘違いしている、という私の自論を証明する好例であろう。 さて次回から、いよいよタツノコプロ作品を取り上げる。タツノコ作品もまた子供向け娯楽を標榜しているようでいて、詳しく見ていくとこれがなかなか業が深いのだ。そしてそのことは私も初見当時に気付いていて、まだ歳幼いのに単純な娯楽として気楽に受け取ることができなかった。そのあたりを始めから精緻に検証していく予定なので、これまた相当の枚数を費やすことになると思う。請うご期待。 第四十回へ続く
三十八、永井豪その4 幼少児向け永井豪マンガ
永井豪先生の漫画といえば、「マジンガーZ」「ゲッターロボ」に代表されるアニメ原作提供用の戦闘ロボットもの、「ハレンチ学園」「けっこう仮面」といったエロスを前面に出したアナーキーなギャグもの、「デビルマン」「バイオレンスジャック」など少年マンガの枠を超え、人の業をあからさまに描いたバイオレンスもの、そんなラインナップが想起されやすいが、実は幼少児向けの雑誌を発表の場としたマンガも少なからず存在する。しかしもちろん永井先生のことだから、藤子不二夫先生や赤塚不二夫先生(赤塚マンガも当時はまだ眉をひそめられる存在だったが)あたりの作品で見られるような、当時の幼い読者に見せるため(というよりその親を納得させるため)の配慮を効かせた表現の自主抑制を、それらの作品ではほんの少しだけ打ち破っていた。傾向としては「イヤハヤ南友」や「キッカイくん」のように価値転換を基調にしているが、幼い読者を対象としているので精緻な論理構築は控えられており、その分直接的な破壊力が備わっていた。それでもやはり当時はそれらを読むことで、永井作品の持つ真価をただちに受け取るのは難しかったようだ。かの「マジンガーZ」と同じ作者であることは認識していたから名前を意識することはあったろうが、永井作品の真骨頂を理解するにはもう少し自身の成長を待たなければならなかった。 まず最初に私が永井マンガとして意識した作品は、「へんちんポコイダー」である。それ以前にも永井豪関連のマンガとして「Z」のスピンオフギャグ作品「ジャンジャジャ~ンボスボロットだ~い」に触れてはいたが、それは幼い私の目でもはっきり「永井先生の手によるものではない」との区別は出来ていた。 で、「へんちんポコイダー」とはすばり「仮面ライダー」のパロディである。しかしタイトルからも読み取れるように下ネタ満載で、無能な少年変珍太が自らの未発達な陰茎(つまりポコチン)を風車のようにぐるぐる回すことで力を得、へんちんポコイダーに変身して、不良や体制的な学校からの刺客とバカバカしい戦いを繰り広げるという、今にすればしょうもない内容だ。ポコチンをぐるぐる回すというのはもちろん、本郷猛がベルトの風車を回して超人力を得る行為のパロディであり、さすがに「おっぴろげジャンプ」みたいな露骨な性要素は表出されないが、それに近似したドタバタが戦いの場で巻き起こり、よくわからないうちに勝利を収めてしまうのである。内容としてはホントにこれだけ、それ以上はない。 ただ設定として面白いのが、珍太の同級生であるヒロインのユカちゃんは、これが最初から彼と相思相愛ということである。もちろん少年誌だから友達として仲の良い程度以上の進展は見せないが、彼女が敵の手に落ちてピンチに瀕した際、珍太がポコイダーに変身して敵を撃滅しても、ようはポコチン剝き出しの状態(マスクにモロ男性自身のシルエットが浮き出ている!)だから彼女に正体を明かすことができず、まして変身シーンなど見せられるものではなかった。これがまっとうなヒーローものなら別の意味で正体を隠す必要があり、そこがまた格好よく映るのだが、この作品の場合は情けなくも性的な理由から正体を明かせない、つまり自分の格好いいところをイメージとしても相手に意識させることができず、気を惹くためのアピールポイントを示すことができないのだ。 しかし別の見方をすれば、この状況は異性を意識し始めた頃の少年が誰しも抱く、根拠のはっきりしない劣等感を表現しているのではないだろうか。つまり自分が相手の女子を好きであること、更に言えば性的な感情で惹かれていることが相手に知れると、その彼女に根本的に嫌われてしまうのではないか、いやきっとそうに違いない、とまず考えてしまう。だから告白はおろか好意を抱いていることすら表立って明かしてはいけない、そういうある種潔癖な、というか相手(女子)が生来もとより潔癖であると勝手に断定して、その異性に気に入ってもらうには自らも潔癖でなければならないと思っているが、実際にはそうでない、という葛藤から来る苦悩である。もちろんその誤解が、女性たるもの潔癖でなければならない、という極めて一時措置的な、社会的に押し付けられた倫理観から来ているのは間違いないだろう(このことに関してはキリスト教など、宗教的倫理絡みで詳しく解説する必要が適時出てくるので、またその際に論述することにする)。その男子がもう少し成長して女性を冷静に観察し分析する目を持つようになれば、若い頃思い込んでいたほど女性は潔癖なものでないし、普段の関係が良好であれば向こうもこちらをある程度性的に意識してしまうものだし、むしろ男性が抱くのとほぼ変わらない性的な懊悩を彼女らも日々覚えている、そういう真実を容易に理解するだろう。一方そんな誤解があるから、現在でもネットで云々されている類の処女信仰が未だに根強く残っているし、その意識がドラスティックにひっくり返った際に生ずる性的暴走も少なくない頻度で起きてしまう。「へんちんポコイダー」という作品は片鱗ながら、そんな誤解をギャグ(物語)に利用したもっとも低年齢向けのマンガだろう。そしてそんな状況を相応な年齢層に当てリアルに表現した作品として、長谷川法世先生の描いた「博多っ子純情」などが挙げられる。 「へんちんポコイダー」を論ずるのだからもっと下品な内容になるだろう、と思っていたら、案外まともに分析モードが発動してしまったようだ。こういうことがあるから、私もこのコラムを執筆するのが結構楽しみなのである。 ちなみに発表されてからずいぶん後年になって、「まぼろしパンティ対へんちんポコイダー」(しかし凄い題名である)として映像化されたが、アダルトビデオの企画もの以上の内容を保有しておらず、せいぜい言ってB級志向で有名な河崎実監督のオマージュ的表出物にしか見えないので、この論述からは外す。 「へんちんポコイダー」にしてもそうだが、永井作品に限らずこの時代に人気を博した児童向け短編マンガは初出誌のみの掲載に留まらず、時を置かずに他誌でも別冊付録などで再録され出版される例が多かったので、その類の作品は初出典誌を特定せず触れた時代順に紹介する。 その次に目にしたのは「キングボンバ」という作品だ。これも変身ヒーローものだが、パロディ要素はなくむしろ王道を踏んでいた。例によって話の詳しい設定や筋は覚えていないが、主人公の少年が神秘の力を持つ太鼓を叩くと、最強の毒蛇キングコブラの化身のような超人キングボンバに変身し、敵対する妖しい組織と戦う、という物語だったと記憶している。そしてその主人公が太鼓を叩く時、バックに昼なお暗い熱帯雨林様の密林が配され、その闇中で「トン、トコ、トン」というパーカッションの打音が一種不気味に、かつ土俗的な高揚感を以って浮かび上がる描写が強く印象に残っている。のちに資料を確かめたところ、やはり「鋼鉄ジーグ」の邪魔台国に似た勢力が敵として設けられていて、全体的に土俗的な雰囲気が強かったようだ。 これとほぼ同じ時期に、先ほど述べたように別冊付録で載せられた「快傑シャッフル」という作品にも触れている。この作品は厳密な永井豪作品ではなく、そのノベライズ作品を多く手掛けたダイナミックプロの永井泰宇先生(ちなみに豪先生の実兄ということ)の原作で、作画は石川賢先生だ。話は明らかに豪作品の流れを組んでおり、特異な体技(忍術ということらしい)を会得する男が覆面で快傑シャッフルと名乗り、鉄板で出来たトランプといった暗器を操るなどして、法の網をくぐって悪事を働くギャング集団と戦う、という話である。 相手は明白な犯罪集団なのだから当然警察も関わってくるが、幼い私に疑念を起こさせたのは、その警察に属するはずの血気走った鬼警部が、ギャング集団と同等に快傑シャッフルをも犯罪者と見なして縄をかけようと奔走していた事態である。快傑シャッフルは、少なくとも読者にとって正義の味方以外の何者でもないのに、警察が犯罪者と裁定して追い回すとは一体どういうことなんだ?と当時の私はこの小冊子を読みながら不思議に思っていた。 しかし今なら、正義の味方が治安組織に追われるという構造は容易に理解できる。ある者が社会正義を実現させようと行動していても、必ずしも順法意識を持ってはいないし、少なくともその義憤の行動が触法しないとは限らないのだ。わかりやすい例を挙げれば娯楽時代劇「必殺」シリーズと同じ構造であり、これは「必殺」そのものの企画意図とも重なってくるが、要は両者とも主人公が体制側とは異なる社会正義を実現しようとしている、つまり前述したように、学生運動の敗北を受けて表出された「個的な正義の味方」を描こうとしているのだ。このトピックについてももちろん、のちのち詳しく取り上げることになる。 また同じような経緯で、「アラ~くん」という小編も目にしていた。これについても内容はほぼ覚えていないが、永井豪作品にしては珍しく、児童向けの枠を超えない正統なギャグマンガだったことは何となく頭に残っている(資料を当たっても、まるで「ドラえもん」みたいだったという記述がある)。ただ冒頭部だけははっきりと覚えていて、題名どおり主人公のアラーくんは魔法のような能力を持っているが、転入した先のクラスで自己紹介の際「自分は特別だ」などと触れ回ったところ、ヒロインらしき女の子が同じクラスにいる奇人変人(特殊能力はない)を列挙して、「あなただけが特別なことなんてないのよ」的な言葉でアラーくんの鼻をへし折ったのだ。おそらく永井豪エッセンスが表に出ているのはその部分だけだったから、後に続く話が記憶に残っていないのだろう。 そして幼少時期に私が触れた永井豪マンガ作品の中で、全盛期に通ずる永井豪要素が一番強かった作品が、ごく一部の間でカルト的な人気を誇る「ガルラ」だ。これも初出は児童誌、話は「ゴジラ」に似た経緯で、ガルラという謎の巨大生物が日本に上陸するところから始まる。ガルラが都市部に入ってからもまるっきりゴジラのように暴れまくって破壊の限りを尽くし、主人公とされる鳳隼人という青年がマジンガーZ(格好はどちらかというと機械獣)のようなロボット兵器に乗り込んでガルラ撃滅に就く。幼い目にはマジンガー対ゴジラという夢のような展開になってきて、セオリーどおりに緒戦はガルラに敗退し、隼人は再戦を待つ身となる。しかし読み進めていくうち、そのあたりで少し奇妙な流れになってきたような気が当時はした。何が奇妙だったのか具体的には覚えていないが、資料によれば隼人はガルラに触れて、不思議に因縁めいた感覚を受けるとある。そして再びの対峙となるが、その時なぜか隼人はロボットに載ってはいなかった。これも資料によると、なぜかUFOが突然出てきて騒ぎとなり、アーサー・C・クラークの「(地球)幼年期の終わり」のような展開になるとある。 そしてここからは明瞭に筋を覚えている。ガルラはその時舞台となっていた火山の噴火口付近でUFOと相対し、その頭上に何の脈絡もなく炎に包まれた巨大な鳥が出現する(火口から飛び出したのかもしれない)。そしてまた何の伏線もなく、思わぬ事態に驚く隼人の前に旅の僧侶が現われる。そして僧侶はいきなり隼人に強い調子で告げる。ガルラ、飛んできた火の鳥、そしてお前、鳳隼人は、人類を救済する仏身が三つに分かれた姿である。突然の脅威から人類が根本的に救われるためには、お前たち三身が一緒になる必要があるのだ、と。このあたりは、仏教における仏法僧すなわち「三宝」、もしくは永井豪先生お好みのキリスト教の、「三位一体」の概念あたりから材を取ったと思われる。そして、そうすれば仏身の真の姿、(二十八衆のひとつ)迦楼羅(かるら)がこの世に現出する、という。訳がわからず戸惑う隼人に僧侶はたたみ掛ける。さあ、お前はあの火の鳥(これも迦楼羅という名らしいが)に身を投じて焼かれるのだ。そしてそれをガルラが喰った瞬間、人類は救われる道をたどることになる。さあ、さあ!なおも戸惑う隼人の姿を映したまま、話は唐突に終わる。 まるで「新世紀エヴァンゲリオン」TV版第弐拾四話を放映した時点でいきなり製作自体を切ってしまったような結末だが、これに関しては意図的なものでなかったようだ。永井先生自身はその先を続けるつもりで「第一部 完」という言葉を巻末に付け足したが、事実上は、内容が難解になるのを恐れた編集サイドが打ち切ってしまったということらしい。アニメ版とまったく違うマンガ版「デビルマン」の結末を見て恐れをなしたマガジン編集部が、同時に連載していた「マジンガーZ」を未完のまま終わらせてしまったという前例があるから、充分考えられることではある。もちろん今となれば、その先に描かれるべき隼人の葛藤と救済のありさまが如何なるものか期待されるし、ダイナミックプロ側も掲載誌を他所に移してでも続ける意向を持つだろうし、それを拾いたがるマンガ誌も事欠かないだろう。でもその当時、この先を続けることができなかったのは充分に理解できる。 論はいささかずれるが、そういった経緯でエネルギーを保持しつつも完結を待たず終了せざるを得なかったマンガは、「サイボーグ009」を始め他の作者でも多数の例がある。逆に言えば、それだけの挑戦心とエネルギーを持ったマンガ家、作家が当時は多数存在したので、マンガというコンテンツは時代を引っ張るほどのパワーを持ち得たのだ。ただ、まさしく永井豪作品に多大なインスパイアを受けた庵野秀明監督が、意図しなかったとは言え「新世紀エヴァンゲリオン」でほぼ同じベクトルの製作状況に陥ってしまった結果、その当時製作サイドで新たなパワーを持ちつつあったアニメの現場において、作劇の主導権を制作サイドが専ら握ることとなったようだ。実際に「エヴァ」の件がどれくらい影響しているか検証のしようはないが、そういう流れが強くなっているのは確かだ。そして企画段階でも商業的な成功をもたらす要素のみが精緻に求められ、アニメ製作が質的な閉塞状態にはまったことは日本の表現界全体にとっての不幸だと言えよう。ここに至るともはや日本において、協同作業の必要な製作現場で作家性を表出することは出来ないだろう、と私は考える。しかしこの話を続けると、もうアニメに責を置くだけでは収まらない展開を内包しているで、このことはまた別枠で述べることにする。 話を戻せば、今や仏陀の説かれた法を学ぶ者として私は「ガルラ」の続きを切望する。仏教の真義に気付いていない隼人が、自らの身を挺して人類の救済を図るか、自らの犠牲を厭うて人類の落日を共に見届けるのか、どちらを選ぶかが一つの見ものであるし、救済を選んだ際そののち先生がどういう展開を示すのか非常に気になるのだ。永井豪先生自身はやはり「デビルマン」や「マジンガーZ」にいたく執着されているようで、直接にはつながらないがのちのちにも続編を発表されており、ここで「ガルラ」を、という声は先生のお耳に届かないだろうか。 今回は著わすべき内容が早くに決まっていて、もっと分量も執筆時間も短くなるものと思っていたが、頭とラストの論題で意図せずにヒートアップしてしまい、結果この場での最長記録に迫る勢いで筆を走らせてしまった。 そして永井豪先生に関しては、当然ここで論述が終わるはずはない。下って高校時分に原作の方の「デビルマン」を目にしてのち永井豪という悪性腫瘍が発覚し、現在に至ってはもはやその腫瘍自体が自分の本身ではないかと疑うようにさえなった。だからその機会が来れば、書くべき事柄はそれこそ山ほどある。 しかし、これほど永井豪フリークを標榜している私でも、実はまだ押さえていない作品が結構残っている。確実に自分自身の仕事の参考になるので「バイオレンスジャック」などは早めに頭に取り込むつもりだが、資料を見る限り個人的には「夢少女レイ」「おれのロリータ」といった性的妄想系も見つかり次第手元に置きたい所存だ。 次こそはタツノコプロ作品を、と思ったら、ちょうど幼児期に観た覚えのある大映初期特撮映画がCSでちかぢか放映されると予定表にあり、そういえば先にそれらを取り上げる機を失していたので、まず「宇宙人東京に現わる」あたりの大映特撮を取り上げることにする。ただ、ある種独特な宗教観を内包しているという意味合いで、永井豪作品とタツノコ作品は直接のリンクはないが方法的に重なる部分があるので、読者諸兄もブランクを経ることでテンションを落とさないようにしていただきたい。では、次回を請うご期待。 第三十九回へ続く
三十七、永井豪その3 幼少期に私が触れた永井豪原作アニメ
今回は私が幼少期に視聴した、「マジンガーZ」以降の永井豪原作(あるいは原案)のアニメを取り上げる。 「グレートマジンガー」 名前からも明らかな、前枠「マジンガーZ」の続編。「マジンガーZ」の最終回で既にグレートが出張って活躍を見せ、本編でも同じ世界設定や科学設定はもとよりお馴染みのキャラが引き続き登場した。このような番組枠をまたいで味方側の主役および主役メカのみを交代させるという構造は、ちょうど「機動戦士Zガンダム」と「機動戦士ガンダムZZ」との関係と、同一ではないが近似している。それにしても、前回も述べた通り「Z」の最終回は衝撃的で、「ウルトラマン」最終回でゾフィーが登場した時の比ではなかった。グレートの操縦士、剣鉄也のハッタリも子供心に効きまくり、デザインも本家Zよりもスマートで格好良く見えたものだ。 で、肝心の本編のお話はというと、実はこれがほとんど印象に残っていない。この企画、もともと永井先生の発案や原作にのっとった訳ではないらしく(ご本人は「Z」の延長を希望されていたそうだ)、永井カラーに準じてはいるものの確かに永井テイストが希薄で、私の心に残るエピソードも皆無に近いのが実情だ。 前作では「Dr.ヘルと兜十蔵との私闘にも似た因縁の対決」と称されるような構造がロボット・プロレスの間隙に見え隠れしていたので、永井作品の持つ情念が比較的うかがえたのに対し、「グレート」の敵はミケーネ帝国という(兜ファミリー主導の機関からすれば)全く外部の侵略者であり、前作に見られたような背後にうごめく不気味な葛藤はほとんど陰を潜めていた。そういえば、「Z」の敵組織名ははっきりと設定されていなかったみたいで、あえて称せば「Dr.ヘル率いる機械獣軍団」あたりだろう。「グレート」でミケーネ帝国という明確な組織を作ったのは、おそらく「仮面ライダー」の構造からの援用だろうが、こういった構造は正直、永井テイストの範疇外にある。永井作品とは端的「神と悪魔の戦い」であり、それが単純な二項対立に収まるはずはない。それを稚拙な勧善懲悪に導きやすい造りにプロデューサー・サイドが変更してしまったのか、少なくとも私の心に留まるものはなかった。 ただ一つだけ深々と印象に残っているのは、グレートマジンガーの建造者で甲児の父でもあり、科学要塞研究所(日本でこんなものの設置が可能なものか、という議論は置いて)の所長、兜剣造を演じられた柴田秀勝氏の、渋さ極まって威厳ありまくりのお声を拝聴させてもらったことである。前に書いたように理想の老人CVが青野武氏なら、理想の父親の声は柴田氏で断じて間違いない。絶対に自分の信念を曲げない意志の強さがひしひしと伝わってくるし、氏の一言を耳にしただけでも背筋が伸びるのを禁じえない、恐ろしいけど頼りになる存在感が備わっているのだ。近作でも「鋼の錬金術師」で、その名も大総統キング・ブラッドレイを颯爽かつ重々しく演じられた一方、「天体戦士サンレッド」で見せられたヘンゲル将軍の、ある種まちがった威厳には大笑いさせていただいた。 「UFOロボ・グレンダイザー」についても、一応この枠で触れておく。 この作品は「グレートマジンガー」の後枠で続編扱いだが、兜甲児が出てくる以外はほとんどマジンガーシリーズとの接点はない。主役メカのデザインもいまいちパッとせず、宇宙空間航行用としてブースター代わりに合体するUFOも心に来るものがなかった。それにやたら女性キャラが出てきて活躍するので、今の感覚では永井先生原案というより松本零士ワールドに近い印象を抱いていた。主人公の名がデューク・フリードというのも頭に残っているが、ドイツ語読みするとジークフリートであり、その辺からも松本ワールドとの脳内混交が来ているのかもしれない。 当然、覚えているエピソードも少ない。というか、記憶に皆無だ。敵組織も、首領の名も飛んでいる。 「ゲッターロボ」「ゲッターロボG」 変形合体ロボの嚆矢であり、熱血ロボットものと認識された初端の作品だ。一体の巨大ロボットに三人が乗りこむのだからマジンガーシリーズよりもチームワークが重要視され、その分燃える要素も作りやすかったのだろう、後続の巨大ロボットでは「マジンガー」よりもこちらの構造をリスペクトした割合が高いようだ。時代が下っても、「機動戦艦ナデシコ」の劇中劇「ゲキガンガー3」はモロに「ゲッターロボG」だった。 これらの作品、実は厳密な永井豪原作ではなく石川賢先生との連名で、実質上はダイナミックプロの企画と見られる。永井先生ご本人の情念が薄い分、戦いの意味を問う類の葛藤は薄く、ドラマはとにかく熱過ぎる、いま流布する言葉では肉食系の、三人の青年がぶつかり合う中で生まれることが多かったと記憶している。初出が近年であれば、さぞやソレ系の同人誌で盛り上がったことだろう(いや、当時でもわからないぞ)。 しかし何といっても印象深いのは、三台のフライングモービルが合体する際のムリ過ぎる変形である。特にゲッター1の機首が頭部に変形するところなどは、瞬時に融解し瞬時に硬化する液体金属でも使っているのか、とまだ幼い当時の私さえブラウン管前で突っ込みまくったくらいだ。その他の合体パターンでも思いっきり物理法則を無視していて(この場合は化学法則か)、もう勢いだけで作られたようなフィルムに深い感慨を抱くことは、私にはなかった。これも有名な「ゲッターロボ」最終回の、武蔵が単身死地に向かい果ててしまう、そのあたりのエピソードもリアリティがうかがえず、正直友情ごっこにしか取れなかった。たぶん小学校の反戦教育で特攻の愚かしさを一面的に刷り込まれたせいもあろうが、それ抜きでもドラマとしてきっちりとは成立していなかった印象がある。資料を調べると脚本は上原正三先生だったが、企画段階から上原先生が関わっていないと先生の筆でもすべて良作である確証はなく、おそらく永井テイストと上原テイストのミスマッチから生じた作劇上の悲劇だろう、と私は憶測する(どちらかというと永井テイストは藤川桂介先生の作風に近いと思われる)。 「鋼鉄ジーグ」 こちらも永井先生単身の原作ではない。名目上でもダイナミックプロが企画として前面に出ており、実質ダイナミックプロの作品だろう。やたらおどろおどろしい雰囲気を醸していたのが印象深いが、結局この作品でも覚えているエピソードは皆無だ。 水木一郎氏による、やたら「バンバン」と連呼するOPテーマはインパクト大だった。氏の歌でオノマトペが多用されるのはおそらく「超人バロム1」からの流れだろうが、それ以外にも「邪魔台王国、全滅だ!」を叫ぶところなど、当時はそれほど意識しなかったが今であればNGすれすれだろう。その頃はちょうど邪馬台国論争が学会の狭い枠を飛び出して盛り上がっていた時なのか、当時は気付かなかったが記憶モジュールとして銅鐸(よく古墳や弥生時代の遺跡で発掘される祭器)が用いられているという設定もあったらしい。 そして何より特筆すべきは、タカラから発売された鋼鉄ジーグのおもちゃ(フィギュア)だ。このフィギュアは本編の設定と同じく、関節部分が球体の磁石と金属で構成されていて、今のリボルテックフィギュアよりも自由なポージングが可能なのだ。それに結合方式もジョイントではなく磁力そのものなので、劇中と同じ分離合体アクションがリアルに再現され、子供たちが遊ぶ際の稼働率も高かった。近年の「鋼鉄神ジーグ」でも同じ構造のフィギュアが出されているかもしれないので、ご存じない方はそれでお試しになるとよいだろう。それにたぶん、あまりの出来のよさに長じても捨てずに取っておいている人がいるかもしれない。安価であれば、確かに私も欲しいくらいだ。 「ドロロンえん魔くん」は直筆の原作が存在するものの、アニメの企画自体は「鬼太郎」の踏襲であるとして永井ワールドから外して既出したが、実は重要作品のひとつ「キューティーハニー」を、私はまだ観たことがない。後年に庵野秀明監督がリメイクした際に乗じて企画された「キューティーハニーF」を断片的に観はしたが、やはり’70年代の若者の意識を映し出し、作り出した現物を押さえずには永井豪ワールドを語り得ないだろう。ということで、「キューティーハニー」は原作込みで私自身の宿題とし、いずれ論ずる場を設けることにする。「魔女っ子チックル」に関しても一見ご自身の発案には見えず、視聴したこともないので時間の余裕があれば検証を行う予定だ。 そして次回は、上記のアニメよりはまだ業が深い、私が触れ得た限りの幼少年誌で発表された永井豪マンガを取り上げることにする。請うご期待。 第三十八回へ続く
三十六、永井豪その2・「マジンガーZ」・2
前回で論述したような時代の気風、そして製作陣の気持ちを、まだ幼い私が文字通り理解していたわけではない。先達である「ウルトラマン」などのヒーローものと同様、表層ではただ単純な正義と悪の対立として認めてはいるが、それだけでない複雑な何かが内包されていることにも薄々気付いていた。しかし、当時はそのことを頭の中ではっきり意識することなく、あくまでマジンガーチーム対機械獣軍団のプロレスショーとして楽しむことしかできなかった。 しかしそこは永井豪原作、単純な善と悪との対立構造でない、あからさまな人の業がアニメ版の作中で描かれることもあった。DVD全部をさらえばいくつかそういったエピソードが見つかるかも知れないが、私が往時見て深く印象に残っているのはただ一件、しかしその話は確実に幼い私の未成熟な心をえぐり、長いことトラウマとして脳裏に焼きついていた。 そのエピソードは何話のどういう題名か、ばかりでなく、どういう話だったかすらまったく覚えていない。一応ネット上の資料でも調べたが、全話タイトルを総じて確かめても思い当たる回はなかった。だからひょっとすると「マジンガーZ」でのエピソードではないかも知れないが、永井豪先生の絵面がうかがえたのはほぼ間違いなく、エピソード自体も非常に永井先生らしいものなので、この場で論ずることにする。 先に述べた通り、その前後の流れはわからない。私の記憶では、いきなりマジンガーZと機械獣が対峙しているところから始まる。しかしその機械獣はいつものように無線でドクター・ヘルなどに操られたり、また彼らやその配下が乗っている訳もない。どういう経緯か知らないが、その機械獣には幸薄い少女が乗っているのだ。しかもその操縦席は、私は凹形だと記憶しているが、とにかく胸の辺りで複雑な軌道を描いて高速移動しているのだ。操縦席が高速移動、とは普通なら奇妙な設定だろうが、それがドクター・ヘルたちの作戦だった。その操縦席には、甲児たちと関わりのあるらしい女の子が乗っている。彼女がドクター・ヘルたちとどんな関係があったのかは不明だが、彼らに何か弱みを握られているかどうかしていて、とにかく甲児たちが彼女を助けたがっていたのは確かだ。しかしこの奇妙な操縦席には更なる仕掛けがあり、無理やり操縦席の移動を止めたりすると、操縦席が機械獣ごと自爆してしまう仕組みになっていた。つまり甲児が操縦席の移動に介入して、無事に彼女を救うことは極めて難しいのだ。しかも機械獣を力ずくで止めたり、また損傷を負わせても爆発する。まさしくジレンマ、いや厳密にはここに二項対立などない。彼女の命を取るか、日本国土の安全を取るか、この場合は彼女に重点を置くことなど、平和を守る存在ならばあってはならない。たとえ彼女を救おうとしても、彼女どころか自分たちさえ無事である確率は悲しいほど極めて低い。甲児たちマジンガーチームは、どっちにしろ彼女を救うことが出来ないのだ。 こう書くと、同じ永井豪作品の中で、同趣向のエピソードがあるのを思い出された方もいらっしゃるだろう。もちろんそれは、マンガ版「デビルマン」中間あたりの「ジンメン」のエピソードだ。不動明と仲の良かったサッちゃんという女の子がデーモンの計略にかかって失踪、そのことを電話口で実行犯のデーモン・ジンメンから告げられた明がデビルマンとなってジンメンと対峙すると、その背にサッちゃんの顔があった。ジンメンに食われた彼女は既に死んでおり、その残留思念が背の甲羅に浮き出ているだけなのだ。同じく喰われて甲羅の模様と化した被害者たちが一斉に怨恨の声を上げる描写は、永井豪作品の中でも最高に恐ろしく切ない表現だろう。ジンメンを倒せば彼らも消えてしまうという、人間の弱い心が残っているはずのデビルマンに多大な苦痛を与えるための非情な計略なのだが、たとえ残留思念であってもサッちゃんを苦しみから救うためだと、明はジンメンに怒りを叩き付けてためらいもせず殺してしまう。 ジンメンの話同様、前述の「マジンガーZ」のエピソードも救いのない結末を迎えたかどうかは、私は知らない。ただ少女の命が助かってめでたしめでたし、とは行かなかったはずだ。だから幼い私は、もっとマジンガーが爽快に機械獣をやっつける話が見たいのに、何でこんな暗くて目を背けたくなるような話を見せるんだろう、と不服に思い、少女の置かれた過酷過ぎる状況にその胸を痛めた。 もちろんそのような感傷が極めて甘い認識でしかなかったことは、少し経って「無敵超人ザンボット3」の人間爆弾のエピソードに接することで気付かされ、また後年に触れた永井豪先生のマンガ諸作品で、人の持つ悲しくも恐ろしい業をいやというほど思い知らされるのである。 それでもアニメ版「マジンガーZ」は、決して明るくはないが、甲児たちが果敢にドルター・ヘルたちと死闘を繰り広げるという、わかりやすいエピソードで占められていた。その最高峰が、「マジンガーZ」本編最終回におけるグレートマジンガーとの主役メカ交代劇だろう。これについて私が特筆すべき言及点はないが、リアルタイムでこの話に遭遇した少年たちは、次の「グレートマジンガー」も絶対に見続けよう、と思ったはずである。 中には先に挙げたエピソードや、原作にもある「ローレライ」の話のように永井テイストの濃い作品もあったが、永井先生発案の「マジンガーZ」を語る上で必ず欠かせないエピソード、というかマジンガーZという人型機械の位置付けを明確に語った言葉が、アニメ版では完全に欠落している。それはマンガ版の第一話で、マジンガーZを作った兜十蔵が死に瀕して、孫の甲児にマジンガーを引き渡す時に吐いたことば、「これを使えば神にも悪魔にもなれる(これは文字通り引用したものでなく、私の記憶に基づく)」だ。これはアニメ版の第一回では、当時の上層部が難色を示したのか、用いられてはいないという。 この言い方は確かに微妙だ。アニメ版のOPでは「正義」という言葉が前面で喧伝されているのに、ここでのマジンガーZは正義でなく「神か悪魔」なのである。神にも悪魔にもなれる、それはすなわち人間のことだ。普通なら神とは正義に等しく、悪魔は文字通り悪と見られる。しかし本来、神は万人にとって正義の体現ではなく、その信者に対してもあくまで「断罪者」なのだ。そして悪魔とは聖書の記述に従えばサタン、つまり特別な存在ではない「敵対者」という意味を持つ(神より流出したのち堕した天使ではないか、という議論はここでは控える)。特定の例を取るまでもなく、戦争においては敵=悪、味方=正義であり、そこに質的量的ともに差異はない。ただ立脚点、立場の違いが双方に存するだけだ。 兜十蔵とドクター・ヘルはもともと同じ研究組織の研究員だったということらしく、どういう経緯で袂を分かったか私はまだその部分を押さえていないが、二人はキリスト教における神と悪魔の起源と同様、かつては同じ志を抱いた仲、というか同じ穴のムジナと言った方がいいだろう。「マジンガーZ」本作中において兜十蔵がもう少し生きながらえていたらその辺りが掘り下げられたであろうが、おそらく上の人間が子供向け作品に複雑な構造を持たせてしまうことに不満を示し(もちろんそんな杞憂は適切な判断ではない)、その部分を削って倫理的な拘泥を見せずじまいにした、と私は憶測する(同時進行されたマンガ版「デビルマン」が異常な展開を見せたことに恐れをなした、という説もある)。そして物好きにもそのツケを払おうとしたのが、その二十年ほど後に製作された「新世紀エヴァンゲリオン」であり、その監督、庵野秀明氏である。が、この先を続けるとディープな永井豪論に移行する上、庵野秀明論にもなってしまうので、これで留める。 あと、一般にマジンガーZはロボットということになっているが、カレル・チャペックが想起した本来のロボットとは以前に論述した通り、自らの意志と判断力を持ちながらも特定の勢力に隷属せざるを得ない、近代の都市労働者のメタファーである。アイザック・アシモフは「I,ROBOT」等で明確な人型機械と設定しつつも、存在様態はチャペックを踏襲している。その文脈で行けば「鉄腕アトム」に出てくる人型機械は明らかにロボットであり、一方マジンガーZをはっきりロボットと規定することは難しく、むしろ全き兵器だと見た方が適切だろう。先の論点を持ち出せば、マジンガーは神にも悪魔にもなれる力を持つ兵器であり、それはすなわち他者を力で圧する能力を持つ人間そのもの、と見ることも出来る。別の見方をすれば、マジンガーZの操縦席は頭上に位置していて、そこは明らかに頭脳、人間の思考を司る部位だ。その場所で操縦を担当する兜甲児は実質上マジンガーZの頭脳であり、そう考えると金属の本体はパワー・アップした甲児の身体に等しい。つまり、マジンガーZは兜甲児と等価、人間そのものである。巨大ロボットの形を取っているのは世界中で普遍的にある巨人願望に基づいていると考えられ、神話にある巨人もまた神、もしくは神の末裔であり、それもまた人間のある種のイデアである。 そして「マジンガーZ」以降、しばらくはそのフォーマットに従ってロボットアニメが作られたが、「機動戦士ガンダム」の出現によってその存在様態が激変した。そして「新世紀エヴァンゲリオン」では更にその先のメタファーを提示してしまったが、そのあたりについてはもちろんのちのち論述することになる。 今回の論述は「マジンガーZ」のアニメ版に焦点を当てており、視聴当時まだ幼かった私が作品総体について語りうるほどの知識とリテラシーを持つべくもなく、覚えている断片を寄せ集めてのシステム分析に終始してしまった感が否めない。その先の議論は、またしばらく経った後に取り上げる「永井豪」の項で続けて展開することにする。 次回は’70年代に製作され、まだこの場では扱っていない永井先生原作のアニメについて語ることにする。請うご期待。 第三十七回へ続く
三十五・永井豪その1 「マジンガーZ」・1
子供たちが熱狂のもとに視聴した最初の低年齢向けアニメ番組、それはおそらく「マジンガーZ」だろう。これ以前の子供向けアニメは、子供が観るに適していると大人が一方的に考えていた、比較的毒の少ないテレビマンガしか存在ない状態だったと思われる。 テレビマンガの元祖「鉄腕アトム」は発達しすぎた文明社会への批判が前面に出ていて、物語も登場人物および登場ロボットそれぞれの内面における確執を描くことに重点が置かれており、戦闘要素があるとしても「マジンガーZ」以降で見られるド派手な活劇展開は抑えられていた。「鉄人28号」は戦闘そのものが主たる内容だが、いまだ敗戦を引きずっているのかまるで憲法9条を気にしているような葛藤がドラマの軸となっている。白黒版「サイボーグ009」に至っては、文字通り憲法9条の条文そのものが活字の形で本編にオーバーラップ処理されていた回も存在した。アメリカ占領時に刷り込まれた戦争への忌避感情が、子供向け番組でも枷となってその表現の幅を狭くしていたのではないだろうか。そんな環境下で作られたアニメを、子供は娯楽として食い入るように見たのかも知れないが、その血を沸騰させることはなかったろう。 しかし「マジンガーZ」は違った。私が視聴を始めたのは幼児の頃で、当然第一回から押さえることはなかったが、たまたまチャンネルをフジ系に合わせるとやっていたこの番組にたちまち引き込まれた。主人公は見た目も荒々しい熱血青年兜甲児、彼はOPの歌詞にあるようなスーパーロボット・マジンガーZに乗り込み、日本の平和を脅かすドクター・ヘル率いる機械獣の群れに全き力で対抗するのだ。 そしてブラウン管上で繰り広げられたのは、これまでに見たことのないロボット・プロレスだった。戦闘行為がプロレス的に表現されること自体は、テレビでは「ウルトラマン」をはじめとして前例は多いが、撮影条件で制約のある実写特撮や、技術的に未熟だったそれまでのアニメとは一線を画する迫力と説得力を、この「マジンガーZ」のフィルムは顕していた。それに加えてこの物語は、光子力研究所とドクター・ヘル率いる軍団との、いわば全面戦争だ。機械獣が街で暴れれば、兜甲児は出撃すること自体に葛藤を覚えることなくホバーパイルダーに乗り込む。時々ドクター・ヘルは光子力研究所そのものを攻撃目標にすることもあり、その際は光子力バリヤーをはじめとする超科学力で弓博士や三博士たちが対抗する。力そのものが否定されることはなく、自分たちをおびやかす存在に対してはより強大な力で対抗すべく画策する、まさに弱肉強食をフィルムに焼き付けたような作品だ。憲法9条の高邁な精神など、この場では不釣合いなものでしかない。これを見る子供、特に男の子は、その幼き血をたぎらさずにはいられなかっただろう。そして私も、深く考えずド派手なロボット・プロレスに手に汗握った一人だ。 それから異様に立ったキャラクターも、この作品の魅力のひとつだ。兜甲児は言うに及ばず、彼をライバル視するがいつも割りを食うボスとその子分たち、それに光子力研究所を陰日向で支えている生真面目な弓博士と、人がよくオヤジ臭丸出しの三博士、弓さやかだけは甲児の添え物的役割に見え幼い私の印象は薄かったが、味方だけでもこれだけユニークな布陣なのだ。そして敵側はもっと凄まじく、ドクター・ヘルはとにかくイカレタ悪の親玉だった。あしゅら男爵もドクター・ヘルに負けず劣らず心身ともにマッドだし、ブロッケン伯爵に至っては自分の頭を小脇に抱えた狂将軍で、後の両者は設定ではサイボーグらしいが、総じてとても人間とは思えない非常識な連中に見えた。もし誰かが私をからかう目的で、彼らは実は地球侵略に来た宇宙人という設定だと吹き込んだら、私はさして疑うことなくその偽言を真に受けただろう。 登場するロボットもまた刺激的で、出動時にはわざわざプールを割って現れる、無類の強さを誇るマジンガーZはもとより、ロボットなのに搭乗するボスと一体化して自身がギャグキャラなボスボロット、ロボットなのに脚線美があらわで、あのオッパイ・ミサイルを装備するアフロダイAが後に控え、それぞれ敵が力を付けるごとに強力な装備が開発され、毎回機械獣をぶち壊すその姿はまさにボクらのヒーロー、スーパーロボットだった。そして彼らに対抗するのは機械獣だが、毎回毎回趣向の異なったさまざまな機械獣が現れるので、後に取り上げる一例を除いて記憶や印象に残っている個別の機体は皆無だ。ただデザインがどの機も中途半端におどろおどろしいので、暴れている姿が勇壮に思えずある意味間抜けに見えたことだけは印象に残っている。 本編を彩る音楽も、また素晴らしかった。OP・EDの歌を担当された水木一郎氏については、ここで私が言及するまでもないだろう。そして渡辺宙明氏の曲、いわゆる宙明節に私が触れたのは、おそらくこの作品が最初だと思う。しかし考えてみると、戦闘が中心であるこの作品のバックにかかっていた曲は悲壮感がことさら強く、どちらかと言うと軍事がかってはいなかった、つまり軍歌の要素が希薄なのである。「鉄腕アトム」のOPはマーチ調であり、おそらく誰も指摘しないだろうがマーチとは全体の規律を求められる行進、すなわち軍隊の行進のバックに流れる曲、つまり軍事の流れを汲んでいる。戦後日本の理想である平和を謳う手塚治虫先生の原作であり、明るい曲調だから明朗だという逆の偏見が働いているので、一般的にはそこまで見通しが利かないのだ。そしてまだ言及しうるほどの考察に到っていないが、「鉄人28号」のOPもその明朗な曲調の中に、表沙汰にしていない隠された要素が存在すると考えている。では「マジンガーZ」の曲と内容との乖離は何を示しているかと問えば、あえて言及するなら個人の情念の表出、つまり光子力研究所のごとく国家や組織によらない個的で悲壮な戦いを強いられている、力を持った(あるいは持ちたいと思って止まない)個人が抱く負の方向に流れた魂の叫び、なのではないだろうか。このことは、おそらく製作陣が当初から意図的に表出したものではないだろう。この作品には企画段階から永井先生が深く関わっていた、という逸話を鑑みると、永井先生の頭の中には「ハレンチ学園」などの経験から前述したような考えが明確にあったのかもしれないが、1970年代前半という時代が持っていたある種の社会的気風から、メインスタッフ全体の脳裏にそういう意識が潜在的に染み付いていた可能性はある。その時代の気風とは、私が考えるに「学生運動、および民衆闘争の敗北」である。このことは、本来主題歌として作られたことで有名なED「ぼくらのマジンガーZ」の歌詞中にある、「争い絶えないこの世の中に 幸せ求めて悪を撃つ」という、相反する命題が矛盾を意識させることなく並んでいる、という事態からも類推されるのだ。 と、これ以上この推論を進めるとなると、その先はアニメ版を越えて永井豪論にまで到ってしまうので、ここではひとまず止めておく。 次回は、当方の都合で短縮せざるを得なかった今回のコラム、アニメ版「マジンガーZ」の考察を続けて掲載する予定だ。請うご期待。 第三十六回へ続く
今週の「宮澤英夫のゲーム!特撮!アニメ!マンガ!」は、都合により、というか本来の自分の仕事で執筆の時間が取れなかったため、更新を土曜の日中以降に変更します。
上記の理由でしばらくの間は更新期日が変動する可能性がありますが、書くべきネタははっきりしているのでクオリティは落としません。それどころか、視聴時の年齢が上がってきたので考察もだんだんディープになると思います。 ちなみに、今週はいよいよ永井豪先生の作品に入ります。業も深くなります。請うご期待。
三十四、「アストロニューファイブ」「ミクロマン」「ロボダッチ」その4
子供の頃は誰でも、歯医者という場所へ行くのに快く思うことはなかっただろう。治療中の拷問にも似た痛みはもちろん、待合室に入ればそこに並ぶ患者の、老若男女問わぬ憂鬱な顔。処置室へ入ると、かすかに鼻を突く消毒用アルコールや複数の薬剤が混ざった異臭。そして今は改善されたようだが、敵意むき出しと思えるほど不快な研磨用ドリルの動作音。古今東西のマンガやカートゥーンでも描かれる、子供が一番嫌いな場所だ。私も例に漏れず、佐賀の実家から二十分ほど北西へ行ったところにある歯医者までの道のりは、たまらなく気が重いものだった。 しかし、まるっきり地獄の道行きだった訳ではなかった、そういえば大学へ上がる直前に同じ歯科医へ行き、その時に治療を担当した歯科技工士の女の子二人があまり経験を積んでなかったらしく、二人掛かりで私の口の中を寄ってたかって覗き込み、その際に両サイドから体に胸がぼんぼん当たって心身の一部がとんでもないことに、などというほとんどギャルゲ展開になったこともあった、いや今そんなことはどうでもよくて、かつてその歯科医へ行く途中に一軒の駄菓子屋が店を構えていて、幼い私は治療帰りにそこへ立ち寄るのが一つの楽しみとなっていた。 今ある駄菓子屋はほぼ観光用のみやげ物店であり、きれいに清掃され陳列も選びやすいよう整えてあるが、ぎりぎり現役だった当時の駄菓子屋は本当にカオスな店構えだった。まさにおばあちゃんが一人で切り盛りしている状態で、お菓子の棚はさすがに食品だからある程度手を入れてあるがおせじにも清潔とは言えず、おもちゃの棚となると仕入れてそのまま置き捨てたような様だった。しかしその構造上、整理して並べざるを得ないおもちゃが一種類だけ存在した。それは箱に入ったプラモデルで、中でも数が多かったのは「ロボダッチ」というものだっだ。 「ロボダッチ」は今井科学(現イマイ)が販売していたオリジナルキャラクターのプラモデルで、その名が表すように「ロボットの友だち」というコンセプトらしく、子供(特に男の子)が好きそうなさまざまの職業従事者やスポーツ選手の姿をしたロボットの模型である。その存在を知った当初は小さな箱が四つのパッケージでまとめて売られていたのが目に付き、「ロボダッチ」というブランドがあることなどわからずただマンガのキャラクターっぽいという印象だけで、親にせがんで買ってもらっていた。そしてしばしばその駄菓子屋に出入りするうち「ロボダッチ」の名前自体を意識するようになり、ほどなくして「ロボダッチ」という枠の中にさまざまな種類のキャラが存在することに気付いた。その切っ掛けは、箱の中に封入されていたチラシである。それは要するに「ロボダッチ」のキャラクター・カタログだが、そこではフルカラーのロボダッチのキャラたちがまさに昆虫採集の標本のごとく、等間隔だが微妙にずらした形で配置されていた。先日もここのコラムで説明したように、当時子供だった私もこのチラシを目にするうち、男児の性なのか収集、分類欲を掻きたてられたようだ。このことは、前回までの論述を援用すれば理解に難くないだろう。「アンドロイドA」(「アストロニューファイブ」)「ミクロマン」は同じ金型を使い回ししたりして、多数の種類を開発するコストを軽減し量産を可能にしたのだろうが、軍事縛りが前提条件のタカラ布陣に対し、同じ枠組みを避けて大人の職業そのものをネタにしようと今井科学の開発担当は考えたと思われる。このアイデアは、昔から人気のある野球選手や相撲取りの絵や写真を流用した、メンコや菓子のおまけのコレクション・カード、今でいうトレーディング・カードあたりから着想を得たものと考えられる。あるいは開発担当者が「ロボダッチ」発売前年に放映が開始された「がんばれ!!ロボコン」に触れ、そこから多大な影響を受けたのかもしれない。もちろん開発と放映の時期にはタイムラグがあるから断言はできないが、ネットもない当時にスパイすれすれの綿密な調査が行われたと憶測すれば、仮説としては納得の行く話である。それほど「ロボダッチ」と「ロボコン」は、偶然にしては近似し過ぎているように、私には見える。ただ、「ロボダッチ」は仮想敵だった「ミクロマン」や「がんばれ!!ロボコン」のようなストーリーを持っていなかった、少なくとも私が見聞した限りでは長尺の、ストーリー性の強いコラボマンガが幼少児向け雑誌に連載という形で載ることはなかった。それには軍事という、男の子向けとして最適なコンセプトをあえて用いなかったためもあろう。その上、この「ロボダッチ」をデザインした方が、潜水艦マンガで当時人気を博した小澤さとる先生だったことにも起因していると私は思う。 小沢さとる先生とは、ふた昔前に訊いたなら知らない方もいたと思うが、ひと昔前に製作された「青の6号」など、潜水艦対潜水艦の手に汗握る海洋戦アニメの原作を描いたマンガ家である。ちなみに代表作は先の「青の6号」と、海上自衛隊のポンコツ潜水艦が世界の海で大活躍する「サブマリン707」であり、小沢先生自身のことについてはまた後に熱く述べる。今ここで、先生自身のことは後、と「ロボダッチ」と先生の他の作品が別枠であるように書いたのは、実は小沢先生はそれほど深く「ロボダッチ」に関わろうとしなかったのではないか、少なくともそんな気持ちがなかったのでは、と私が考えているからだ。上記した先生の代表作はもちろん戦争ものだが、同じ男児向けの「ロボダッチ」には不思議なほど軍事的要素が紛れ込みすらしていない。せいぜい、超人という位置付けで非武士系の和風戦闘員、火遁ロボとか入道ロボくらいだ。詳しい内情は知る由もないが例のチラシを深読みすれば、当時のイマイサイドは「ロボダッチ」から戦闘要素を排除する方針を採っていたような印象を受ける。一方、小沢先生はメカが描けるし人物キャラも可愛げで上品だし、何よりドンガメ707号に付属する小型潜航艇「ジュニア」などの、一見おもちゃに見えるが機能美をも備えた独特のメカデザインセンスが評価されての、イマイの発注だったのだろう。 しかし先に述べたように、小沢先生はただかわいくてかっこいいキャラが描けるだけでなく、戦争を描くことにも長けていた。しかし先生の描く戦闘行為は相反する国益をかけた国と国とのぶつかり合い、領地、領海を得るための陣取り合戦を目的としているのでなく、第二次大戦後の自由貿易を安全に保つための、公海上の秩序を侵す勢力に対する鎮圧であった。そして海中で相対する敵の艦長と707号の速水艦長とはたいてい顔見知りで、旧知の戦友や相認める智将であることが多い。そして、ただベクトルが違っただけで敵味方に分かれてしまったが故、速水艦長は相手の改心を望みながらも、結局は本意かなわず撃滅せざるを得なくなる、という展開を多く使われている。平和のための軍備、と書くと拒否反応を起こす方もいるだろうが、小沢先生は理想やきれいごとだけでは平和は保てない、と日本の再軍備に対する風当たりが強い中、作中ではあくまで自論を堅持されていたのだ。 ひるがえって「ロボダッチ」は、そういう目で見れば反戦平和の体現である。本来ロボットも含んだ最新の科学技術というものは、大抵において戦争が行われるごとに発達していく。しかしそれが総取替えで平和的用途にのみ転用されるなどという事態は、普通の技術論的、政治論的文脈にのっとれば不自然極まりないのである。 しかしイマイ側は、戦いを起こさないロボットたちのパラダイスを作ろうとした。もうこの時点で「ロボダッチ」は、元来ロボットという概念の持つ本性から大きく乖離してしまった。カレル・チャペックの描いたロボットの本性は使役を請負う存在、そして機械である必要もなくまた奴隷とも違い、近代経済社会が夢想し渇望した、雇い主にとり極めて都合のよい労働者のことだ。現にアメリカ軍が無人軍用機プレデターを採用したことにより、ロボット、つまり無人兵器の非人道性を問う懸念の声は強まっている。例を近くに取れば「鋼の錬金術師」に出てきた”死なない兵隊”を想起されればよいだろう。 これから憶測の領域に入る。小沢先生の作品を観る限り、テクノロジーとは熟練や研究でその扱いに長けた人間のみによって適切に運用されることができる、という主張がそのベースに存すると思われる。一方「ロボダッチ」の世界は最新テクノロジーのみ、つまり高性能の原水爆が起爆可能なまま思考し自走しているのと同じである。そういった技術進歩礼賛のイマイの態度に、小沢先生は言外、あるいは無意識のうちに反感を持たれたのではないだろうか。その当時、小沢先生が自ら描かれた「ロボダッチ」のマンガ版も存在しており、私も箱に封入されていた小冊子や「たのしい幼稚園」などで触れてはいたのだが、その内容はとなるとまったく覚えがないのだ。たしか枚数がきわめて少なく、たわいもない一発ギャグなんかが描かれていたりしたと思うが、代表作を押さえている今となっては、それらのマンガ版にもともとの小沢先生らしさなど微塵も感じられなかった、という印象だけは残っている。これらから察するに、先生はデザインを提供すること自体はやぶさかでなかったが、イマイ側の考えた「ロボダッチ」のメインコンセプトを無批判に肯定し、それにのっとった作品世界を構築することに難色を示されたのかもしれない。でなければ、小沢先生があんな空気にもなっていないマンガを善しとして描かれるはずがないのだ。そして結局、小沢先生や他の開発者の手で作品世界が構築されることもなく、ばらばらのキャラが互いにロボット同士であることだけに起因する、薄い絆の薄い物語が表われたのみだ。もし無理やり世界設定やストーリーを作るとしても、構成要素が単なる労働者やスポーツ選手ばかりだとそれは現実社会と等しいものでしかなく、歳幼い子供の興味を惹く対象ではなくなる。 以上は憶測である。 しかし、万博の余熱覚めやらぬ’70年代初頭、まさに科学技術進歩礼賛の波は世界を席巻していた。もちろん日本でも、そして九州のさらに片田舎の佐賀でも、新三種の神器の普及とともに科学信奉の幻想は人々に浸透していった。「ロボダッチ」が成功した一因は、その波にうまく乗ることができたからであろう。加えて「ミクロマン」同様さまざまなバリエーションを産出し、男児を収集、分類に駆り立てて需要を開拓し、派手なメディア展開に依ることなく販売を拡大していった。 しかし「ロボダッチ」は「ミクロマン」ほど作品世界、世界背景が緻密でない。その表面的な理由は明確でなく、答えを見つけるとすれば上記の形で憶測するしかないが、少なくとも現象面はそうであった。一応、お約束で秘密基地も販売されたが、それにはロボダッチたちが基地を作る必然性を裏付ける(防衛や侵略などの)主体的な目的がなく、正直「サンダーバード」や「ミクロマン」などの作品世界を形だけ転用したに過ぎないように見える。それはもはや単なる「遊び場」、子供が裏山に設営する秘密基地の代用品でしかない。そんなものは自分自身で仲間を集めたりして作った方が面白いに決まってるので、一時期かなり集めた割に、私が「ロボダッチ」から離れるのは割と早かった。その時期に勃興してきた子供向けべったりでない、ストーリー面が強化されたマンガやアニメに興味がシフトしたからだろう。そして、それ以降の「ロボダッチ」の展開に目を向けることはなかったが、資料を見る限りはやはり、企画当初の枠を超えて主体性を明確にした「ロボダッチワールド」が形成されることは、結局なかったようだ。 思い出話に戻る。件のチラシの真ん中あたりには、前述したジョブ・システムに乗っていない、つまり何を生業としているのかよくわからないキャラクターが大きく鎮座していた。それがタマゴロー、ロボQ、ロボZ、ロボXであった。彼らは個々の性格を持つという設定で、秘密基地以外で大きなサイズの箱で販売されたのも彼らのみだ。明らかにキャラクター戦略に基づいて産み出された製品である。 しかし設定上、何の目的で彼らアルファベット・ナンバーが作られたのか、私は本当に理解することができなかった。確かに「ろぼっ子ビートン」をもっとメカメカしくしたデザインには強く惹かれるものはあった。個人的には無骨なデザインのロボZや、Zに似た姿形だがどこかユルいロボQは割と好みだったが、そんな志向はあるとしても、肝心のストーリーや世界背景が薄い(はっきり言えば、皆無な)中でキャラ立ちしているようには見えず、ビッグスケールタイプの購買までには到らなかった。ただ四個パッケージの中に紛れ込んでいた(今で言えば抱き合わせ)「ぶんぶんタマゴロー」と「ドライブタマゴロー」の両者はほとんどだまされる形で手に入れたが、ビッグスケールより造形が甘く、その上やたら四個パッケージに含まれていてダブったトレカ状態になり果て、それでビッグスケールに手を伸ばす気力すら失せたのも事実である。 もちろんそれで収集欲がすべて削がれることはなく、ジョブキャラは結構集めていた。中でも気に入ってたのはモグラロボとアメフトロボだ。前者は当時の子供にも人気があったようで、最近の再販では初回発売のリストに堂々と入っていた。もちろん「サンダーバード」のジェット・モール(モグラ)のイメージが強いのだろう。当時の子供は「海底軍艦」の轟天号などまだ守備範囲外だろうし。でも「ロボダッチ」の姉妹品として「カーダッチ」が発表されるに到って、私の「ロボダッチ」というコンセプトに対する興味はおそらくそこでついえた。たぶん往時のF1ブームに乗っかるつもりだったのだろうが、それでは実際のF1に傾いた方がマシに思えた。TVの向こうでは、筋書きのない本物のドラマが世界規模で展開しているのだ。私は見なかったが。 長く書く気は毛頭なかったが、あのネタがあるこのネタがある、ついでに小沢先生がらみで気付かないうちに燃えてしまい、結局このブログでは最長記録を突破してしまったようだ。話の最後に付け加えておくが、私は小沢先生サイン付き直筆タマゴロー色紙を持っている。別に直接押しかけたとかいうのでなく、東京にいた頃まだ都下だけに出店していた時代の「まんだらけ」中野店で、三千円くらいで求めたのだ。大きな折れ曲がりの跡があり状態もはっきり悪いけど、「サブマリン707」などにもはまった私にとっては、何物にも換え難いたいへん貴重な宝物である。他人にすれば、ただのゴミ以下の代物だろう。 次号では何を取り上げるか、実は迷っているところだ。 「ヤマト1」も通過したことだし、そろそろ作家単位の話を進めた方がいいとは考えているが、さし当たってその方向で行くとしても永井豪先生かタツノコプロにするのか、まだ決断が付いていない。単品でよほど重要な要素を持った作品をこぼしていたら先にそれを拾っておくが、おそらく上の二者のどちらかとなるだろう。請うご期待。 第三十五回へ続く
三十三、「アストロニューファイブ」「ミクロマン」「ロボダッチ」その3
今回も「ミクロマン」について論じるところから始める。 例のパンフレットを目にしたことで学問オタクの芽が開いてしまった私のようなごく少数の例外を除いて、多くの子供が「ミクロマン」に熱中したのは、前回に述べたようなしっかりした世界観を裏づけることにより可能となった「ミクロマン」という商品の多様性、それを出来得る限り拡大したことが勝因だった、つまり全国の玩具店の店頭にいっぱいミクロマン関連商品を並べることができたことに因る、そう私は考えている。 話はまた商品開発時にさかのぼる。「変身サイボーグ」の発展形である「ミクロマン」の商品展開戦略は、当時タカラの主力商品である「リカちゃん」人形を参考にしたということである。当時の変身ヒーローのフォーマットをそのまま適用した「変身サイボーグ」の主人公はあくまで単体(一個人)、仲間や敵の数も多くなくストーリーも不備気味で、わかりやすくはあるが広い商品展開が難しい構造だった。しかし、同じ会社の「リカちゃん」は確かに単独の主人公ではあるものの、その家族、友達、恋人など家族や近所付き合いの域からキャラクターを増やしていき、商品としてのリカちゃんワールドを形成することに成功した。その方法論を「ミクロマン」にも援用すればよいのでは、と開発担当部署は考えたらしい。 そこでまず前回取り上げたような精緻な世界観を下地に敷き、体長10センチでも生きているスーパーヒューマノイド「ミクロマン」を作り上げた。この設定とこの小ささは一種画期的だった、と担当者の弁にもある。「リカちゃん」や「変身サイボーグ」はあくまで仮想的に存在するキャラクターのミニチュアに過ぎなかったのが、「ミクロマン」は設定そのままの原寸サイズで、しかも子供にとっては、仮想キャラとはいえ手中の人形はあくまで本物だったのだ。その感覚は現在の萌えフィギュアに対するオタクの意識ともまた違い、あえて言えば「原寸大綾波レイ人形」にかなり近いと思われる。それでも虚構に対する親和性は、メディアに乗らない対象が現前する「ミクロマン」を手にした子供の比ではないだろう。 ただ、初期ロットミクロマン四体だけでは販売拡大に至るはずもなく、そこで「リカちゃん」方式を援用する、つまり仲間を増やしていくのである。もちろん女児向けである「リカちゃん」のように家構造、地縁血縁に頼っては男児に訴えるものがないので、彼らミクロマンは流浪の民であり地球上に新天地を作るという目的を持ち、地球の世界各地に散らばって覚醒した同性の同類を集める、という流れが作られた。軍事目的ではないが、居住地を建設するための彼らの乗り物を用意した。そして拠点となる基地も設けた。こうして商品面での「ミクロマン」ワールドが形成されたのだ。 しかし楽土建設だけでは、まだ男児の購買意欲を引き出すには弱かったらしく、ここでいきなり「スパイマジシャン」という仲間が登場する。彼らの職務は基本的にスパイであり、能力的にはその名のごとく戦闘力も高い諜報部員、RPGでよく見られる忍者に近い。では彼らは何を探っているかというと、近年地球上のいたるところで頻発する災害や天災、社会の混乱は、悪の心を持ったミクロマン、「アクロイヤー」によって引き起こされている、という事態を調査していたのだそうである。「変身サイボーグ」などではまだ悪の宇宙人が敵であったが、世情の混乱により内部から敵が出現する、というのはいかにも全共闘時代を経た発想であり、当然のことであるが、ほぼ同時期の富野喜幸式作劇術ともシンクロしている。そしてこれも当然、アクロイヤーに対抗するための軍事的要素が「ミクロマン」世界に付加されることとなる。 具体的な敵が出てきた(それまではミクロマンの母星を含むミクロソル太陽系を滅ぼしたガス体αH7が、天災という形で漠然とした敵になっていた)ことで仲間が一気に増え、前後するが土星の惑星タイタンから来たサイボーグや、古代遺跡に取り込まれ覚醒したミクロマンコマンド、そして女性ミクロマン、巨大化したアクロイヤーに対抗するため開発された「ロボットマン」など、雨後の筍のように新製品、いや新しい仲間が出現した。そしてそれに合わせてアクロイヤーの仲間も増え、悪の側だがコメディキャラまで作られた。その後の展開は「ミクロマン」をご存知の方、いや児童向け玩具の構造を知る方ならば想像に難くないと思われる。 ここで私が問題にしたいのは、こうした「ミクロマン」世界の多様的拡大に対応する子供の意識である。「ミクロマン」に限って言えば、メインターゲットは男児だろう。子供は何かに興味を覚えたとき、人間の本性なのかそれを収集、保持することでひとまず満足する。そしてその手中に入れたおもちゃで一時期は熱心に遊んでいるが、その対象が一個、あるいは数少ない複数であればいずれ飽きが来て、別の玩具に興味が移ってしまう。しかし、手中のおもちゃと同系列でしかも個体として違う対象が出てくれば、慣れない新規商品よりはそういった派生品を欲しがるはずだ。実際、そういう形で「ミクロマン」は男児の間に浸透していった。 そうなると、男児の遊び方にも変化が出てくる。悪役がいるのだから、正義のミクロマンがアクロイヤーを一方的にやっつける、という遊び方ばかりを男児はしない。勧善懲悪の物語は読み物やテレビで氾濫しているから、そのシミュレーションを何度か試すことはあっても一つの物語のみに執着することはまずない。では何をするのかというと、個々のミクロマンの個体差を確かめにかかるのだ。初期ロットのクリアタイプとその次に出されたMシリーズは、素材はもちろんプロポーションが異なっていた。M200シリーズでは金属が使われているという設定だし、タイタンは可動部が磁石を利用した球体関節になっている。スパイマジシャンはその身体能力ゆえか、既存のミクロマンよりスマートな体型である。それらの個体差を認めたのち男児は往々として、それぞれのミクロマンをロボットマンなどの乗り物にとっかえ引っかえ載せてみるのだ。そしてそれらを基地に集め、思い思いにディスプレイすることで悦に入る。また敵のアクロイヤーにもさまざまな種類が存在し、同じような鑑賞法で楽しんだ。そういった個別性をそれぞれのミクロマンから見出す、つまり分類することによって、鑑賞に際し各々が自分のストーリーを作り上げることができ、各々のやり方で楽しむことができたのである。 このあたりの論述で、ある既視感に気付いた方もいらっしゃるだろう。この幾多も存するミクロマン商品を収集し、そして分類することで自分なりの楽しみを得るという遊び方、これは、今やほとんどの子供が従事することのない原始的な遊び、「昆虫採集」と似てはいないだろうか。細かく例示するならミクロマン総体は節足動物門、正義のミクロマンは昆虫類、ミクロマンの亜種であるアクロイヤーは蛛形類(クモの仲間で、ほとんどの昆虫類にとっては天敵)に比することもできるだろう。昆虫類の仲間もその中で細かく分類されるし、悪の蛛形類の中にもいろんな種別の個体が存する。またミクロソル人類の末裔たるミクロマンそのものではないという意味で、ミクロマン付属のモービルやロボットもそれに相応する節足動物に当てはめることが可能なはずだ。それは言い過ぎ、とおっしゃる方は、現在の視点で「ポケットモンスター」よりこの構造を類推されてはいかがだろうか。少し前なら「ビックリマンチョコ」のおまけシールで展開された、多様な神と悪魔の混交も例示として適切だろう。海外の例を挙げればRPG風カードゲームの名作「マジック・ザ・ギャザリング」、遡行を極めれば「ファーブル昆虫記」などはもうその嚆矢だろう。時代を問わず子供は収集、分類を好む傾向があるようだ。 しかしそもそもの企画意図に還れば、原点となった「リカちゃん」と比べて「ミクロマン」の商品世界はかなり広く展開される形となった。「リカちゃん」の世界はまさに香山リカの手の届く範囲しかなく、一方「ミクロマン」は企画段階で太陽系規模、後々には外宇宙の領域をも含むことになる。これはかなり複雑な議論となるのでこの場で軽々に展開することは難があるが、この幼少時期の時点ですでに男女の意識の差が表出していると、あくまで現象面のみを捉えれば私はそう読んでいる。「ミクロマン」が男児の心を捉えた重大な要素が「収集、分類」であるとすれば、「リカちゃん」が女児に好まれた理由は、その商品展開で提示された家族や近親者の位置付けを遊びの中に持ち込むこと、ようはおままごとだが、女児にすればそういった少数の卑近な対象の役割を明確にして、その役割のシミュレーションによる構造の維持そのものを遊びとして楽しんでいる向きがある。女児の側も一定の構造を構成するには、少なからず男児と同じ収集過程が必要だろう。しかし現象面で収集の対象が少なくてすむというのは、女児においては少なからぬ複数の対象まで手を広げて分類を行う性向がなく、個々の対象と対象の関係性を掘り下げる作業だけで遊びが成立しているようにも見える。私はこの女児の傾向を「階層化」と称しているが、この場では男児たる私の認識を主たる問題としているので、深くは言及しない。ただ、このセックスとジェンダーに関わる議論はもちろん人間存在の根幹に関わる問題なので、また別枠で詳しく述べることになるだろう。ここではさし当たって、女児の「階層化」と男児の「収集、分類」が対の概念になっていることを明記するにとどめておく。少しだけ別の言い方で説明すれば、男児は自らを横糸と考え、縦に絡む糸、つまり自分と関わる個々の対象を水平方向に並べることによって一つの布を構成する、つまり一つのシステムを理解しようとするのに対し、女児は縦糸であり、垂直方向に噛ませた横糸の上下、つまり対象の上下関係でシステムを認知、理解するのである。 今回のコラムに関しては、扱う作品の主体であるべき原作者や監督の意向が構造上欠如していたためか、主題の解析がなくその代わり構造の解析ばかりに力が入ってしまった。そのためアニメ・マンガに関する論述というより、「PRESIDENT」あたりに載せても遜色がなさそうなマーケティング戦略論モドキになってしまった嫌いがあるが、同じ世代でこれらの玩具に思い入れのある方は熟読とまでは行かずとも、こんな考え方もあるんだ、程度には理解してもらいたい。 他に「ミクロマン」に関する私自身の思い出を語るとしたら、M211カリー、スパイマジシャンM132ダン、そしてロボットマンを親に買ってもらっていた。M211カリーにはダッシュウイング、ヘルメットの他に専用の円盤状モービルが付属していたはずだが、なぜか件の「ミクロマンクロニクル」には載っていなかった。汎用のUFO型モービルは紹介されているが、私が見たM200系と同じ色をしている専用機は、どの資料を当たっても引っかかりもしない。「アストロニューファイブ」同様、この時期の男児向け玩具の管理体制は少しアバウトだったようだ。そして買いこそしなかったが、「ミクロマンコマンド」シリーズのカプセルは設定にのっとって古代遺跡から出土した偶像などの形をしており、それらが異様にかっこよく見えたものだ。 今回こそ「ロボダッチ」まで一気に論じきってしまおう、と予定していたが、醸造する時間が長かったためかかえって「ミクロマン」考察が暴走し、予定枚数を消化してしまった。 そこで次回こそ「ロボダッチ」を取り上げることにし、その上尺が足らなかった場合、原作者である小沢さとる先生について少し触れるかもしれない。いずれにせよ、請うご期待。 第三十四回へ続く
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